立花道雪――もとの名は戸次鑑連(へづぎあきつら)。道雪は法名。立花家を継いだので立花姓となる。道雪には息子がいなかったので、盟友である高橋紹運の実子を養嗣子にした。立花宗茂が、その人である。
立花道雪は若いころに雷に打たれ、足が不自由になった。そのため思うように歩行できなかった。そこで手輿(たごし)という、前後二人で轅(ながえ=長く突き出た二本の棒)を腰の辺りに持ち添えて運ぶ、乗り物に常に乗っていた。
代々大友家に仕え、大友家が衰退しても心を変えることなく忠義を尽くし、また武勇たくましい人で、部下をわが子のように愛した。
戦に臨むときには、長さ二尺七寸(約八十一センチ)もある刀と、種子島の鉄砲を手輿の中にいれ、三尺(約九十センチ)ばかりの棒に、腕を通すための紐をつけたものを手に引っさげて手輿に乗りこみ、長い刀をさした若い部下たち百人あまりを左右にひきつれる。
いざ合戦がはじまると、道雪は手輿を部下にかかせて、棒をとって手輿をたたき、「えいとう」の声をあげ、「この輿を敵の真っただ中にかき入れよ」と指揮をとる。
万一、突撃が遅れると、道雪に輿の前後を棒でたたかれるので、部下たちは遅れをとることを敵から逃げることよりも恥とした。だから皆、わき目も振らずに敵陣に突っこみ、輿を突入させると、手輿の左右の者たちは、三尺あまりの刀を一斉に抜いて真一文字に切りかかる。
先陣の者たちは「ほおれ、れいの音頭がはじまったぞ」と言うやいなや、我先にと競って攻めたてるので、どんな堅陣でも切り崩していった。
もし先陣が敵に追い立てられた時には、道雪は大声をあげて「われを敵の真ん中へかき入れろ。命がおしければ、そのあと逃げよ」と目をむき出して命じるので、戦況はもりかえし、そのため負けることはなかった。
だから道雪の部下たちは、一日に何度も槍を構えて戦ったというものが多い。
また道雪は常にいう。
「武士に弱い者なぞいないものだ」と。
「弱い武士がいるとすれば、それは本人のせいではなくて、その大将が励まさないのが悪いのである。私の部下はいうまでもなく、下っ端の足軽に至るまで、皆、数々の功名をあげている。
もし他の家に仕えている者で、臆病者だという武士がいるというなら、私のところに来て仕えなさい。私が世話をして、すぐれた武士に育ててみせよう。
そうそう、私の配下の四月朔日(わたぬき)左三兵衛も若い時、最初は臆病者といわれていたものだが、いつの頃からか血なまぐさいことに接していくうちに次第に慣れてきて、今では、五、六本の指のうちに入る剛の者と世間で評されるようになったのだ」と。
たまたま武功のない者がいれば、道雪は、
「運、不運があるのは戦(いくさ)の常である。そなたが弱き臆病者でないものでないことぐらい、この立花道雪、ちゃんと見定めておる。だから、明日にも合戦に出るときに、決して他人にそそのかされて抜け駆けし、討ち死にをするような真似だけはするな。それは不忠というものだ。身を大事に任務をまっとうして、いつまでも道雪に仕えてもり立ててくれ。そなたたちをうちつれているからこそ、私はこれほど年老いた身でありながら、敵陣のまっただ中でひるんだ様子を見せずにすんでいるのだ」と、ねんごろに愛情豊かに言って、酒をくみ交わし、いま流行の武具を取り出して与えるので、これに励まされて、続けて合戦がある時には、必ず人には遅れをとられまいと勇む。そして、みごとな武者姿を見せれば、人々の前に呼び出し、「おい、みんな見てくれ。この立花道雪の目に間違いはなかった」と褒め称え、すぐれた剛の者の名を呼んで「その方にこの者を頼む。よく面倒をみてやってくれ」と言い、「皆が、心をひとつに合わせてくれるので、この道雪、武将冥利につきるというものだ」と励ます。
もし若い武士が、会合などの場で粗相をしたときには、客の前に呼び出し、笑いながら、
「道雪の部下は、不調法で行き届かぬものばかり。されど、いざ戦に臨んで火花を散らして戦う時には、この者たちの槍さばきこそ、実にみごとで頼りになるのです」と、槍を振り回す真似をしてその者をほめるので、部下たちは感涙し、「この人のために命を捨てよう」と励んだというのである。