明智光秀が織田信長を殺したとき、秀吉は備中(岡山県西半部)にいて毛利家に対して陣を敷いていた。秀吉は所々に忍びの者を配置していたのだが、備中庭瀬で、怪しげな飛脚の者を生け捕りにした。
秀吉が飛脚から奪った手紙を開いて見た。
『信長を討ち取れば、秀吉は必ず敗北するだろう。秀吉を追撃されよ』という毛利家への密書であった。
「もしこの密書が毛利家に渡ったなら、どんな計略を受けていたか分からない。秀吉の思慮は深い」と人は言った。
また「備中高松城は簡単に攻め落とせたのに、わざわざ水攻めにして日数をかけたのは、常に信長は、部下が大手柄を素早く立てるのを忌み嫌う気持ちがあり、秀吉がそのことを察したためである」とも言った。