〜戦国武将エピソード集〜

長尾輝虎(=上杉謙信)が越後を治めたこと

 

長尾輝虎の幼名は猿松(さるまつ)という。

▽輝虎は最初、景虎(かげとら)と名乗った。後に京に上ったとき、将軍、足利義輝から輝の字をもらって輝虎と称した。鎮守府将軍平良兼(たいらのよしかね)の四代のちの、左衛門尉(さえもんのじょう)平致経(むねつね)の次男である村岡五郎忠通(ただみち)の子孫である。本来の姓は平氏であったが、父、為景(ためかげ)が越後の守護代、長尾氏の家督を継いで越後守護代となったため、長尾と称し、輝虎は管領上杉の家督を譲られ上杉と称した。甲陽軍艦に梶原景時(かげとき)の子孫とあるのは誤りである。

 

兄は三郎という。猿松は乱暴者だったので父、為景(ためかげ)の信頼にそむいた。一説には継母の讒言(ざんげん)によるものだといわれているが、そのため猿松は父、為景に「出家しろ」と命じられ、下越後(現在の下越地方)にある橡原(つるはら)浄安寺に追いやられた。金津(かねづ)新兵衛を付き従えて米山越えにさしかかったとき、猿松は八歳なので徒士(かちざむらい=徒歩で主人の供をした下級武士)の背に負ぶさって山を登り、頂にあるお堂で降りて、破籠(=お弁当箱、檜木などの薄い白木でつくった折箱)を取り出して食事にした。猿松は遠くに頸城府内(越後国頸城(くびき)郡。府内は国府の所在地を意味する)の町並みを眺めると、しだいに涙ぐんできて「このように落ちぶれることは口惜しいことだ。今に戦(いくさ)を起こして志をとげたならば、この山によじ登り府内を眼下に見下ろしてやる。ここはしかるべき決戦の場所である」と言ったので、乳母子(めのとご=乳母の子)である本條美作守も声を震わせ「その言葉をお忘れなさるな」と喜んだ。

▽一説には、為景は猿松を憎んで其伝城(そのもりじょう)越前守に預けられる。この時、十二歳。それから諸国をまわって風俗を見聞し、人情を知り、地の利をさぐったといわれている。

 

このようにして猿松は九年の間、寺に暮らしながらも僧になる意志はなかった。天文十四年(一五四五年)に為景が越中で討ち死にした。跡継ぎである三郎は愚かで気が弱く、そのため越後は乱れ、所領の所々を敵にかすめ取られたので、猿松は父の弔(とむら)い合戦をしようと思い立った。宇佐美(うさみ)駿河守(するがのかみ)定行(さだゆき)を説得し、天文十六年(一五四七年)正月に十八歳で元服し、平三景虎(かげとら)と名乗り、橡尾(つるお)の城で挙兵した。兄、三郎はこれを聞いて長尾越前守政景(まさかげ)に七千の兵を与えて攻めさせた。

 

矢倉で様子をみていた景虎が「敵は今夜にも退却する気配がある」と言うのを聞いて、定行は「遠路はるばると攻めに来て何もせずに退くことがあるでしょうか」と言った。

 

景虎が「敵に小荷駄隊(=補給部隊)がいない。つまり、持久戦で取り囲む作戦ではないということだ。兵糧なく、退却するところを攻撃すれば勝利は間違いない」と説明したので、定行も「なるほど、もっともなことです」と真夜中に打って出た。

 

案の定、敵である政景の軍は混乱し、敗北した。三郎はまた攻めてきて、景虎は柿崎の下浜に陣を構え、そのまま三郎を打ち破る。

 

三郎が府内を目指して退くとき、景虎は米山の東阪本で、「なんだか無性に眠たくなってきた。睡眠をとった後に追撃しよう」と小屋に入った。

 

定行は、「今、お休みになるなんて、ありえません。破竹の勢いとはまさにこのこと。ぜひ追撃いたしましょう」と訴えたのだが、景虎は高いびきをして眠ってしまったので、皆、「このような勝機を逃すとは」と嘆き合った。

 

だいぶ経ってから、景虎はさっと起き上がり、「三郎の軍は、山の向こう側に三分の一ほど越えたと思う。さあ、追撃だ」と馬に乗って、ホラ貝を吹かせた。亀破坂で山を下る敵に攻撃をしかけ、大勝利を挙げた。

 

定行は「今日、逃げる敵を討つべき時に、景虎様が寝たふりをされたのは、我々がそのまま敵を追って山を登ろうとしたら高いところから攻撃を受けて不利だったからである。そして敵が下り坂になって逃げ腰になるのを待ってから討とうとされたのだ。これは我ら老臣どもがかなう相手ではない。今年わずか十八歳。弓矢取る事において、誰が景虎様と肩を並べることができるだろうか」と語った。

 

景虎は越後を治めることができた後、高野山に出奔(しゅっぽん=姿をくらますこと)しようとした。長尾家の重臣たちはともに集まり、「景虎様がいなければ国を敵に奪われるにちがいない」と、関の山に追いかけて行ってなんとか引き留めようとした。すると景虎は「私は年が若く、人々を従わせるだけの威厳がない。老臣たちが私を軽んじれば国の政治は根本から成り立たない。このような国人のために利益を求めるのは、我が身に害を招くことになる。もしこれから、私の命令にそむく気がないというのなら神文(神の名によってする誓約書)を書いてよこせ。そうすれば留まってやってもよい」と言った。

 

そこで重臣たちは「もとより景虎様は我らの主君であると心服しております。なのに、どうしてその命令にそむくというのでしょうか」と答えたので、景虎は「それならば」と引き返した。

 

景虎は三郎を隠居させ、これにより威をふるい、越中に攻め入って父の弔い合戦をとげた。

 

重臣のなかに主君にそむく心があるものを、林泉寺(りんせんじ)で腹を切らせ、国を治めた。

 

景虎は晩年には謙信と称した。

      目次

常山紀談、001-1

常山紀談、001-2

常山紀談、001-3