〜戦国武将エピソード集〜

輝虎(=上杉謙信)、平家物語を語らせたこと(付記)佐野天徳寺のこと

 

輝虎はある夜、石坂検校に平家物語を語らせていたが、鵺(ぬえ)の段になると、しきりに涙を落とした。すると周囲にいた者たちが皆、不思議がったので、輝虎は説明した。

「我が国、日本の武徳はすっかり衰えたように思われる。

 

むかし、鳥羽天皇(白河法王院政)の時代、御所に妖怪が出たとき、八幡(はちまん)太郎(=源義家)が弓の弦を鳴らして、「我は鎮守府将軍、源義家(よしいえ)なり」と名乗っただけで、たちまち妖怪は消え失せたという。

 

それがのちになると……。源頼政(よりまさ)が鵺を弓で射ったが、それでも鵺は死ななかった。井野隼人(いのはやと)が刀で斬りつけて、やっとのことでとどめをさせたという。

 

義家が鳴弦(めいげん=弓の弦を鳴らすこと)したのは天仁元年(一一〇八年)。鵺の出現は近衛天皇(鳥羽上皇院政)の時代である仁平三年(一一五三年)の事。このわずか四十六年の間に、弓を鳴すだけで退治できた妖怪が二人がかりでないと倒せないくらい、甚だしく武徳は衰えてしまったのである。

もし今、妖怪が出現したら、鳴弦でも二人がかりでも倒せるはずがない。源頼政からさらに四百五十年の年月が経ってしまい、私は頼政よりもはるかに武徳が劣ってしまっているのだから。そう考えると思わず涙が流れてしまうのだ」

▽これとよく似た話がある。ここに付記する。

 

相模(さがみ)北条氏の家臣、佐野城主の天徳寺(=佐野房綱、ふさつな)は勇将である。ある時、琵琶法師に平家物語を語らせた。法師が語る前に天徳寺は、「私はただ、あわれなる箇所を聴きたい。そのように心得よ」と注文をつけた。

法師は「かしこまりました」と、佐々木高綱(たかつな)の宇治川先陣の段を語った。すると天徳寺は雨がしたたり落ちるように涙を流した。そして「もう一曲、今と同じようなあわれな話を聴きたい」と頼んだ。法師が那須与一(なすのよいち)の扇の的の段を語りはじめると、天徳寺はまた大泣きした。

 

後日、自分の側近の者たちに「この前の平家物語はどうであったか」とたずねたところ、皆、「面白く思いました。ところが、ただひとつ、よく分からないことがあります。二曲とも勇ましく手柄を立て、名をあげる物語で、あわれなるところはひとつもありませんでした。なのに殿は感涙されて声を詰まらせていました。今でも皆で、それはどうしてなのだろう、と話し合っています」と答えた。

 

天徳寺は驚いて、「たった今まで、私はおのおの方を頼もしく思っていた。なのに今のひと言で、がっくりと落胆してしまったではないか。まず佐々木高綱のことをよく心に浮かべてみろ。右大将、源頼朝が、弟の蒲冠者(かばのかんじゃ)範頼(のりより)にも寵臣(ちょうしん)梶原景季(かげすえ)にも与えなかった名馬、池月(いけつぎ)をもらったからには、万が一、宇治川で先陣を切ることができず、人に先を越されたのならば、必ず討ち死にして二度と帰ることはしないと別れを告げて出陣した。そのような高綱の志こそがあはれというものではないか」としばしば涙をぬぐいながら言った。

 

そしてしばらくしてから、また言った。

「那須与一にしてもたくさんの人の中から選ばれて、ただ一騎で陣頭に出て、馬を海中に乗り入れて的に向かうまで、源平両軍が鳴りをひそめて見守る中、もし射損じたら味方の名折れである。馬上にて腹を掻き切って海に沈もうと決心したその心中を察してほしい。弓矢取る道ほどあわれなものはないだろう。私はいつも戦場に臨むときには、高綱、宗高(むねたか=那須与一)両人と同じ心構えで槍を取るので、平家物語を聴くときにも、両人の気持ちを思いやり、涙をこらえることができないのだ。それをあわれではないというのであれば、おのおの方は私が思うにその武勇は、その時かぎりの勇気に頼ったもので真実の覚悟から生じたものではないと思い至ってしまった。それでは全然頼もしくない」と嘆いたとのことである。

目次

常山紀談、002-1

常山紀談、002-2

常山紀談、002-3