〜戦国武将エピソード集〜

近江国(おうみのくに)、音羽(おとはの)城軍のこと

 文亀三年(一五〇三年)、細川武蔵守(むさしのかみ)政元(まさもと)の家臣に沢倉という者がいた。沢倉は武略があって戦上手で、近江の国の半分を切り従えた。

 だが、蒲生(がもう)下野守(しもつけのかみ)貞秀(さだひで)入道(にゅうどう)知閑(ちかん)が音羽の城を拠点にして、沢倉と戦(いくさ)をした。

 沢倉は「音羽城は山城だから水が乏しいだろう」と、城に致る水路をふさいで、外部からの水の供給を絶った。

 知閑は、敵からよく見える矢倉の前にたくさんの馬を並ばせた。そして白く精米した米を桶に入れ、その白米を使って(水に見立てて)、人々は裸になって馬を洗いはじめた。

 沢倉はこれを遠くからみて「この城には思いの外、水が多いようだ。このように長期に渡って陣を敷いていたら、こちらの兵糧が尽きてしまう」と囲いを解いて、退きはじめた。

 そのチャンスを逃さなかった。この周囲の地形をよく知っていた知閑は、小倉なわての要害で撃って出て、一同に斬りかかり、完全な勝利をおさめた。

 知閑は蒲生氏郷(うじさと)の祖父である。

   
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常山紀談、004