〜戦国武将エピソード集〜

荒木安芸守(あきのかみ)が討ち死にしたこと

 大永年号最後の年である七年(一五二七年)に、細川武蔵守(むさしのかみ)高国(たかくに、入道道永と称した)は三好左衛門督(かみ、*1)と互いに争った。

 三好は桂川を渡って高国の陣へ押し寄せた。波多野備後は高国に恨みがあったので、丹波の兵を引き連れて高国に叛(そむ)き、三好の側についたので、高国の軍は敗れた。

 高国の武将、荒木安芸守は百ばかりの兵をさいて、「みんな、このありさまを見てくれ。月花酒宴(つきはなしゅえん)の時の言葉には似ていないことだ。恥を知る弓取りのいない世の中であろうか。私はただちに道永の為に命を捨てて恩に報いるつもりだ。そうしなければ道永が逃げのびることができない。

 この戦場から退いたとしても、それがこの戦況における世間一般の常識なので、けっして逃げた者だけが悪く言われることもないだろう。

 しかし義を義としないのは弓矢取る身ではない。おのおの真の武士となって、私と同じく義をふまえようではないか。

 そうしたくない者に無理強(じ)いすることはできないが、皆はどうするぞ」と彼らにたずねた。

 兵たちは皆、「殿が口惜しいと思っていることはよく承知しています。それに殿は私たちの日頃の思いをお知りにならないと思われます。どうしてこのような時に我々が見苦しい振る舞いをするとお思いなのでしょうか」と誰ひとりこの場から去る様子はみせなかった。

 荒木は「そうであろう。まことに主従のちぎりというものは、この世だけのものではないのだ」と笑って、自軍である京軍が逃げ散っていくのを傍目に見て、しっかりと、敵兵が押し寄せてくるのを待ちかまえていた。

 阿波、丹波の兵が先を争って激しい勢いでかかってくるのを間近で引き受け、「私を誰だと思う。管領家臣、荒木安芸守だぞ」と何度も叫び、一斉に襲いかかり、先駆けてきた敵十人ばかりを突き伏せた。

「逃げる敵を追い立てるのは五、六十間(一間は、六尺で、約一・八メートル)を限度としろ。離ればなれになるな。遠く追い詰めて疲れるなよ」

 そうして再びそこへ押し寄せてかかってくる敵を待ち受け、突き退け、何度も何度も戦った。

 討った敵の数はどれほどになっただろう、荒木の兵は主従ひとりも残らず討ち死にしたが、その間に高国はかろうじて近江に逃げのびることができた。

 荒木は普段から兵を気にかけ、懇情をつくした。古くなった食べ物を分配し、衣を脱ぎ、一緒に楽しみ、苦しみをともにするところがあった。少しの手柄しかない者を見捨ててたりはしなかった。

 ある時、荒木と近い血縁関係にある人と、荒木の部下で身分の軽い者がともに疫痢にかかった。荒木はふたりに愛情のこもった、できるかぎりの療養をさせた。しかし血縁関係の者よりもいやしい身分の者への看護の方が勝っていたので、この縁者は恨んだ。

 荒木は「縁者は私を頼らなくても病気の面倒をみてくれる人がいる。それに対し私の部下は身分が低い。身分が低い者に対して、人はおろそかに扱ってしまう。私が心を尽くさなければ療養に怠りがあるだろう。縁者をおろそかにするのではないが、先に重い患者に心を尽くしただけである。

 何事もないときには縁者どうし仲がよいといっても、ことがあるときは兵とのひたむきな関係が頼りになる。一族ゆかりの者といっても、敵味方にわかれれば互いの生き死にを気にかけない。それに対し兵とは戦場で生死をともにするものだから、一人として(本来の意思である戦場で死ぬことではなく、病死などで)失うことは私にとって大いなる憂いなのだ」と答えた。

 兵たちはこれを聞いて、荒木に恩を思うこと、骨身にまでつらぬいたということである。

*1 かみ=上、長官という意味。
広辞苑によれば、律令制の四等官の最上の官。役所によって文字を異にし、太政官では「大臣」、神祇官では「伯」、省では「卿」、弾正台では「尹」、坊・職では「大夫」、寮では「頭」、司では「正」、近衛府では「大将」、兵衛府・衛門府などでは「督」、国では「守」とある。  

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常山紀談、005-1

常山紀談、005-2