〜戦国武将エピソード集〜

毛利元就の厳島合戦 (付記)盲人スパイのこと

 陶(すえ)尾張守(おわりのかみ)晴賢(はるかた)が主君である大内義隆(よしたか)を殺したので、毛利元就は陶晴賢を討ち滅ぼそうと企てた。

 陶晴賢は目の見えない琵琶法師をスパイにして、元就の企てを知った。元就もはじめは、こちらの情報が陶晴賢に筒抜けであることを知らなかったが、しばらく経つと、そのスパイの存在に気づいた。

 あるとき元就が「陶晴賢の家臣である永来(ながき)丹後守が毛利に内応してくれた。これで毛利が陶を打ち破る日も近くなった」と語ったのをスパイである琵琶法師がすぐに陶晴賢に伝えた。そして元就は永来に、いかにも自分に内応してくれているような内容の書簡を送った。永来は周防の岩国の城に居たのだが、その書簡がわざと山口で陶方に奪い取られるように仕向けた。そうして物証である書簡まで手に入れた陶晴賢はたいへんに怒って、無実の罪である永来を殺した。

 元就はますます敵方のスパイである琵琶法師を手元に近づけた。平家物語を習うと称して、自分のそばから離さなかった。

 陶晴賢はこれを伝え聞いて、たいへん喜んだ。

 そしてある夜、元就は軍(いくさ)評定(=合戦の前に行う軍議)を開いた。元就は「敵が大軍で宮島(=厳島、海路の拠点である)に渡ったらどうしようもない。(海上交通の要衝である宮島が落ちれば、海上封鎖をされ、海側から好き勝手に攻撃されてしまう。)ここが毛利が滅ぶかどうかの分かれ目である。草津、廿日市に押し寄せてくるのなら、岩国の弘中(ひろなか)三河守(みかわのかみ)が毛利方に呼応して寝返ってくれるので、陶晴賢を打ち破ることができるのだが」と語った。

 これは大軍を擁する陶晴賢が、海路ではなく陸路から進軍してくれば、毛利方は防ぐ場所として桜尾(さくらお)城(=宮島の対岸、瀬戸内海に面した城)以外に、きちんとした要害がない。それに対し陶が宮島に渡ってくれさえすれば、行きに使った船を焼き討ちにし、敵の帰路を断った上で、大軍を狭い宮島に押し込めれば、勝算もみえてくるという魂胆からである。

 目の見えない琵琶法師は陶晴賢に軍評定の様子を告げると、陶は「ならば宮島を攻めよう」と言った。

 弘中三河守隆包(たかかね)は宮島へ渡ることの非を説いたが、元就の策略により陶晴賢は、弘中に謀反の疑いがあると思っていたので聞き入れなかった。

 弘治元年(一五五五年)十月、四万あまりの軍勢が大船に乗って、勢いよく宮島へ渡り、宮島にある毛利方の宮尾城を四方から取り囲んだ。

 元就は陶との絶望的な戦力比から、十死一生、とうてい生きる見込みのない軍(いくさ)であると覚悟した。本拠地である吉田城から出陣し、わずか四千ばかりの兵をもって、後ろ巻き、すなわち味方を攻め囲む敵軍を、(宮島の対岸に陣を敷くことによって)、さらにその背後から囲んだ。

 元就が陣を敷いた、宮島の対岸である地御前には、厳島神社の外宮である地御前神社があった。宮島は厳島は島全体が聖地と見なされ、人が住むことは禁じられていたので、神社の者は祝い日ごとに蛤船(=蛤をとる小舟)に乗って、宮島に渡るのだが、それを招いて交渉をして、ひとりの武士に神官のまねをさせ、宮島に渡らせた。

 宮島に着くと陶方の者が「元就はどんな様子だ」と問いかけた。

 地御前神社のニセ神官は「元就殿は『草津、廿日市へ陶殿が押し寄せて来たのなら勝利していたものを、宮島を攻めて来たのでなすすべがない』とおっしゃって、対岸の火立(ほたて)浦で途方にくれていましたが、あの様子では吉田城に引き返されるでしょう」と語った。このため陶の兵たちはもう元就が攻めてくることはないと油断してしまった。

 元就は密かに軍(いくさ)の支度をした。「一隊は洲屋(すや)明神の前から船から上陸して、天本の前を多宝(たほう)如来(にょらい)の側を通り、宮島の町口へ向かえ。別の一隊は吉田郡山(こおりやま)の百姓ども五千あまりを嫡子である毛利隆元(たかもと)を大将として、弥山島(弥山=みせん、厳島神社の背後に位置する、標高五三五メートルの山)から西の山々の梢にたいまつを結びつけ、百姓どもの両手にもそれぞれたいまつを持たせ、夜半の鐘を合図に一斉に火を付けよ。そして吉川(きっかわ)元春(もとはる)は船に乗り込み、入り江に並べられた陶方の船を燃やして沈めよ」と作戦が決定された。

 十月三十日になると、元就は奇襲作戦が敵側に漏れないように「今日、草津に退く。風雨が止(や)まなければ今夜、火立浦に滞在する。兵たちは二日分の兵糧を鎧や兜に身につけよ」と命じ、小荷駄隊(=補給部隊)をまず退却させて、いかにも毛利軍が撤退する様にふるまった。

 日もいくらか暮れてきたので、すぐさま「ただいまより、宮島へ渡り、長年の敵を討ちとるぞ。急いで船に乗り込め」と命令した。兵たちはすみやかに船に乗んだが、かがり火は灯さなかった。「唯一、明かりを灯した元就の船の火だけを目印に船尾の舵をとれ」ということで、酉(とり)の刻(=午後六時)ぐらいに火立浦を出た、ちょうどそのとき、北風がはげしく吹いたので、「追い風だ」と勇み進んで、亥の刻(=午後十時)ぐらいに宮島の西に着いて陸に上がった。背水の陣で臨ませるために、兵の見ている前で、乗ってきた船を一艘も残さず火立浦に戻した。

 ここで元就は、あの目の見えない琵琶法師を引っぱり出し、「おまえのおかげで今夜、長年の志を遂げることができた」と言って、海に沈めたといわれている。

 毛利の嫡男、隆元は弥山島に登り、元春は洲屋明神の前から強行し、小早川隆景(たかかげ)は敵の背後から向かった。

 そして一斉に鬨(とき)の声をあげ、弥山島の梢に結びつけたたいまつに火をつけると、陶軍の兵は驚き騒ぎ立てた。そこへ元就の本隊が大声で叫びながら突撃すれば、陶軍の兵たちは数百人が討ち死にした。元春、隆景の軍も側面から突撃し、三浦越中守と隆景が槍を合わせ、三浦を突き伏せると、そこに居合わせた内藤内蔵允(くらのすけ)が首を取った。

 弘中三河守も討たれ、陶軍はさんざんに敗北した。

陶晴賢も旗本(陣中で、大将のいる本営に詰める武士)を進めて、隆景と戦った。元就の兵、栗屋(くりや)又四郎が真っ先に駆けつけたが討ち死にした。元就本隊がわきから斬りかかり勢いよく攻撃すれば、陶晴賢は退いて、道場山にこもった。

 (宮島は神聖な場所であり、山は人の手が加わっていない原生林で覆われている。敵を残らず討ち払おうとする毛利軍も苦戦した。)

 明けて十一月一日、元就は諸軍を集めて卯の刻(午前六時頃)から丑の刻(午前二時頃)まで、十二回も戦闘が行われた。両軍ともに、討たれた者は多数であった。

 陶晴賢はついにあきらめて自害をした。首は取られて、さらし首にされた。

 毛利軍が討ち取った敵の数、四千七百八十あまり、生け捕りにした敵兵、八百五十人あまりという。

 この戦いによって、西国の者たちは元就に従うようになった。

目次

常山紀談、010-1

常山紀談、010-2

常山紀談、010-3

常山紀談、010-4