道灌が上洛したとき、慈照院(じしょういん=将軍足利義政)が酒食を設けてもてなそうとした。
慈照院は猿を一匹飼っていた。
その猿は見知らぬ人をみれば引っ掻き傷つけるということを道灌は聞いて、猿使いに賄賂を送って猿を借りて、その猿を宿屋の庭につないだ。そして、道灌は将軍の前に出仕する服装に着替えて、その猿のそばを通った。案の定、猿が飛び掛ってくるので、道灌は鞭で思うがままにたたきふせた。すると猿は頭をたれて道灌を恐れ伏せるようになった。そこで道灌は猿使いに謝礼をして猿を返した。
そうして慈照院の饗応(=接待、酒席)の日がやってきた。前もって慈照院は飼っている猿を招待客たちが通る場所につないで、道灌が猿に襲い掛かられて慌てふためくのを見ようと待ち構えていた。しかし猿は道灌の姿を見ると地に平伏した。道灌は着物の、胸の上で合わさる部分を整えながら、何食わぬ顔で通り過ぎた。それで「道灌はただ者ではない」と慈照院はたいへん驚いた。
その猿を繋いだ戸を猿戸という。それで猿戸(=庭園の入口などに用いる簡単な作りの木戸【広辞苑】)という名称が新たにできた。
▽道灌は讒言(ざんげん)によって殺された。文明十八年(一四八六年)七月二十六日のことである。
『かかる時さこそ命の惜しからめ
かねてなき身と思ひしらずば』
が辞世の歌として言い伝えられている。また松田家の物語にも同じく辞世の句として記されている。
しかし道灌の和歌集には、この歌に、ある戦死した武士を悼む詞書きがある。
康正元年(一四五五年)の冬に、藤沢の役が起こり、上杉宣政(=道灌の主君)と北条憲定が藤沢において対決した。敵も味方も入り交じり、三日三晩、戦闘が続くことになった。味方である上杉方の武威が強くて、敵の主君、北条憲定(のりさだ)がしまいには自害して、生き残った兵たちは戦う目的をなくし、ある者は敵に突撃してかわりがわりに死んでいった。そのとき、藤沢近くの松林の中で戦う男がいた。味方の方は中村冶部少輔重顕(しげあき、中村重頼?)といって、もとは公家であったが落ちぶれて上杉家に仕えて俸禄をもらっている武士である。敵の男は栗毛の馬に乗って「二つ引き輪登り竜」の紋を付けた差物(=武士が戦場の目印として鎧の背にさした旗)をして、その鎧姿は遠目ながら威厳があるようにみえた。ふたりはしばらくの間、戦って槍を突きあっていたが、目の前で中村が敵の男を槍でつらぬいてそのまま首を取った。中村は自陣に戻って、「これこれしかじかであった」と語った。まだ壮年にもなっていない若い男で、色が白く背が高いようである。鬢のあたりに優れた香を焚きこめて、いやがうえにも哀れが増した。敵ながら感じのよい顔つきであった。
中村重顕が「この優雅な男のために、歌をひとつ詠んで手向けにしては」とすすめたので、その首に向かって「かかる時さこそ命の惜しからめ かねてなき身と思ひしらずば」という歌を詠んだ(中村重頼もこの後、「なきみとはたれもしれどももろともに 今はにおよぶことおしぞおもふ」という歌を詠んでいるが、ここで常山紀談では『云々』と省略されている。)とある。
この道灌の和歌集の方が当然、信憑性が高いので、この『かかる時』ではじまる歌が道灌の辞世の句とする、松田物語並びに世に伝わっている所のものは誤りである。