〜戦国武将エピソード集〜

徳川家康が大高城に兵糧を運び入れたこと

 今川義元は(織田家、元家臣の山口教継の調略により手に入れた)尾張国の大高城に鵜殿(うどの)三郎長持(ながもち)を配置させていた。

 織田信長も(のど元に突きつけられた敵の最前線である大高城を囲むように)所々に城を構え、丹家には水野帯刀(たてわき)、善照寺には佐久間左京、中島には梶川(かじかわ)、鷲津(わしづ)には飯尾(いいお)近江守宗定(むねさだ)、丸根(まるね)には佐久間大学(だいがく)盛重(もりしげ)を配置して、そのほか、寺部、挙母(ころも)、広瀬にも砦があった。そして大高城に今川からの兵糧が入ったなら、鷲津、丸根でほら貝を吹き、それを合図に寺部、挙母、広瀬の砦より馳せ集まり、丹家、中島より後詰(ごづめ=救援)することが決められた。

 今川義元は松平元康(=のちの徳川家康)に使いを出して、(信長がたくさんの砦を築いたことで輸送路が切断され孤立してしまった)大高城に兵糧を運び入れるよう命じた。

 松平元康は「心得ました」と返事をした。

 そしてすぐに実行しようとしたら、家臣の酒井、石川らが「(大高城包囲における)信長の配置は尋常ではなく、そのため大高城にはそう簡単に兵糧を運び入れることができません」と松平元康に進言した。

 しかし元康は聞き入れなかった。

「私には策があるのだ」と言って、まず兵を分け、福釜の松平左馬助親俊(ちかとし)、酒井与四郎忠親(ただちか)、石川与七郎ら四千ばかりを永禄二年(一五五九年)四月九日の夜半に大高城、鷲津、丸根の砦を避けて通って素通りし、寺部の砦に押し寄せよと命令した。

 元康は八百ばかりの兵を率いて、兵糧米を馬に積んで、大高城から二十町(=約二キロメートル)ほど離れた所に待機していた。

 先陣の兵四千が、寺部砦に押し寄せ、城中が騒いでいるとろこに、最初の木戸口を撃ち破り、火をかけて、それから梅坪に押し寄せて、三の丸まで攻め入り、火を放って焼き立てた。

 その炎は天を照らし、鬨(とき)の声が響き渡ってきたので、丸根、鷲津の砦を守っていた者たちは、この様子をみて、はるばるとやって来た三河の敵が自分たちを踏み越えて攻め入った確実な証拠であると思った。そして「すぐに後詰(=救援)しなければ」と丸根、鷲津の者たちは、寺部、梅坪に馬で駆けて向かった。

 その間に元康は軍配をとり、米を背負った馬千二百頭を連れて、なんなく兵糧を大高城に運び込むことができた。

 丸根、鷲津に残っていた者たちはこれを見ていたが、ほとんどの兵が後ろ巻き(味方を攻め囲む敵軍を、さらにその背後から囲むこと)するために出陣していたので、なすすべもなかった。

 元康はすぐに兵を引き連れて岡崎に帰還した。部下たちが、「今夜の謀略は誰も真似できない、それは見事なものでした」と口々に告げた。

 元康はこれを聞いて、「今夜のはたいへんにたやすい作戦だったのだ。まず誰も予想もしなかった寺部、梅坪の砦を攻めて火を放ち、それによって丸根、鷲津の兵を後詰(=救援)に向かわせ、その間に大高城に兵糧を運び込んだのである。兵法に神速を重視しろ、とあり、また敵の不意を突け、というのもあるのだ。私は兵法の基本に忠実に従ったまでだ」と言った。

 皆、「たしかに殿が、臨済寺の大原雪斎を先生として、兵書を読み学んでいたとはいえ、このような作戦をよくも思いつかれたことだ。天性に優れ立派な大将になられた」と言った。

 これは元康が十八の時であった。

   
目次

常山紀談、025-1

常山紀談、025-2