武田信玄は北条との戦いで大勝利を収めた。勝鬨(かちどき)の式を執り行(おこな)って、甲府へ凱旋しようと諸勢をまとめて引き揚げていた。
そして勝手大明神という神社の前を通りがかったとき、どうしたことか信玄の馬が突然飛び上がり、信玄は落馬してしまった。主君のそば近くにいた諸将はたいへん驚いて、介抱したのだが、信玄はたいした怪我もなかったので、駕籠に移った。そして信玄は「この神社は何という神を祭っているのだ」とたずねた。
近習の者は「勝手大明神が祭られています」と何気なく答えた。
信玄は「勝手という神の前で私が落馬したことはいかにも不審である」と気がかりになりながら甲府に戻った。
当時、織田信長は近畿に威を振い、なんとかして天下統一をなし得ようと決意していたが、何といっても信玄の威勢にはまともにぶつかっていくわけにもいかず、あれこれと心を砕いていた。
信長の家臣、羽柴秀吉は京都にいて、諸国にスパイを放って、国々の様子をうかがっていた。
するとそれらのスパイから、この度、武田信玄が今川氏を攻め滅ぼしたこと、北条の後詰(=援軍、後続の軍隊)と戦い、真田の智計(=ちえのあるはかりごと)によって北条家の大軍を破ったこと、そしてその後、甲府へ帰陣(=戦地から戻ること)する途中、信玄が勝手大明神の前で落馬したことまで、詳しい報告を受けた。
秀吉は大いに喜び、ついに信玄が命を縮める時がやってきたと、密かに歌を一首つくって甲府に送り、スパイにこの歌を歌わせ、どこからともなく流行らせた。
『頼む甲斐なきにつけては誓ひなし
勝手の神の名こそ惜しけれ』
信玄は落馬の後、色々と気にかけ心配し、昼夜をとわず思い悩んでいたので、「勝手大明神での落馬は、もしかしたら私の命がつきる前触れなのかもしれない」と怏々(=不平なさま。満足しないさま【広辞苑】)として楽しまなくなっていた。
ちょうどそのとき甲府近辺でおかしな歌が流行っていたので、信玄は「さては私の命が尽きようとする前兆にまちがいない。私の大望は水の泡となってしまうのか」と、落馬や歌のことを明け暮れとなく苦しみ悩んでいたので、日増しに疲労が激しくなった。
諸方(=あちらこちら)の名医を集めて色々と治療をしたのだが、まったくその甲斐がなくて、今はもう食欲さえないありさまであった。
甲府の諸将は大いに驚き、「さてはこのほど、どこからともなくおかしな歌が流行ったのは、このようなことがおきる前触れだったのか」と一同は皆(みな)、恐れをいだき、生きた心地もしなかった。
真田昌幸は之を聞いて、「さては織田家の猿冠者(かんじゃ=若者)のしわざだな。よくも私の主君を陥(おとしい)れてくれたものだ。さあ、どれ、我が殿の病を癒(いや)して来よう」と甲府へ向かった。
昌幸は急いで登城し、信玄の病床を訪れたのだが、その病状からは長く生きられそうもない様子であった。
昌幸は進み寄り、「殿、ご容体はいかがです?」とたずねた。
「たいへん苦しい。私のこの病状では、どうやら回復する見込みはなさそうだ」
信玄は糸のようなたいへん細い声を振り放って言った。
これを聞いて昌幸は言った。
「殿のご病気の根元を治す良い薬があります。その薬を用いればたちまち平癒(へいゆ=病気が治る)することでしょう」
それを聞いて信玄は起き直って、「それはいかなる良薬ぞ」とたずねた。
「殿のご病根は『頼む甲斐なきにつけては誓ひなし、勝手の神の名こそ惜しけれ』の歌でございます」と昌幸は言った。
信玄は驚いて、「昌幸よ、お前は私の病根をいかにして知ったのだ」と問いかけたので、昌幸は笑って「これは信長の家臣、羽柴秀吉のはかりごとです。これぞ人を欺く子房(=張良、前漢の初代皇帝劉邦の軍師)の知略です。殿はだまされて万金にも換えがたいご自身の命を失いかけたのです。」と申し上げた。
信玄は、はたと膝を叩き打ち、「我ながら愚かだった」と限りなく喜び、「昌幸の一言によって私の病はもはや治ってしまった。さっさと北条を撃破して上洛をとげ、かねてからの望みを果たそう」
と言ったので、昌幸も一緒になって喜び、そして同時に、「童子(=こども)が歌で我が殿の命を縮めようとは。秀吉め、面憎い(=顔を見るのもにくい【広辞苑】)ことだ。このむくいに私はひとつの手紙をもって、秀吉の肝を冷やしてやるぞ」と大いに怒った。
信玄は昌幸の知略に感心し、「古今にまたと得難き名士なり」と評して、信州の上田城を昌幸に与えることで感謝の意を表した。
昌幸はこれによって上田城に移ったが、その後、昌幸はなにやら手紙をしたためて京都へ送りつけた。
このとき羽柴秀吉は京都における行政を担当していたのだが、甲府へ放っていたスパイから、「信玄はこちらの謀計にかかり病床に伏している」という注進(ちゅうしん=大事や事件を急いで報告すること)を聞いて、心の中で大いに喜び、「私の謀略はみごと成功した。信玄が亡くなる日は近い」とひとり笑みをもらした。
そこへ信州上田の城主、真田安房守(=昌幸)からの使者入来の報せを聞いたので、秀吉は不思議に思った。
「昌幸は、ようやくこの頃、上田の城を与えられたと聞いていたが、何の用があって私に手紙を送ってくるのだろう。武田家は近頃、織田家の縁者となっているので、おそらく普通の見舞い(ご機嫌伺い)の手紙だろう」と思いつつ、その使者を呼び入れ、昌幸からの手紙を開いて読んでみた。
だが意外にも、一首の和歌があるだけで、他の文言は一字もなかった。
『難波津の蘆(あし)わけ舟にをどされて
菅(すげ)の庭鳥立ちさわぐなり』
秀吉はこれを見るなり、しばし考え込んだが、当時は軍事に忙しくて、まだ和歌の素養がなかったので、この歌の意味が分からなかった。
繰り返し、繰り返し読んでいたところへ、竹中半兵衛重治(しげはる)が来たので、秀吉は大いに喜んだ。
「竹中氏、これは良いところへ来てくれた。今、武田家の家臣、真田昌幸から、このような奇妙な歌が送られてきた。私が考えるには、私の学がないことを侮り、くだらない歌でもって私を悩まし、どう返事するのか試しているようなのだ。この憎っき真田めが、このようなことをしおって。ええい、こんな手紙、引き破って捨ててやる」と大いに怒った。
それを竹中は押しとどめて、「真田昌幸はまだ若者ですが、なかなか尋常な人物ではございません。どうして子供のいたずらのようなことをするでしょうか。それはそうと、その歌は何という内容なのですか」とたずねた。
そこで秀吉はその歌が書かれた手紙を竹中に見せた。
竹中重治はこれをじっくり呼んで、眉をひそめ、「この歌の『難波津の蘆わけ舟』が誰を指しているのかは分かりませんが、『菅の庭鳥』とは歌道の約束事でカエルのことだと聞いています。しかし続く『立ち騒ぐ』も理解できません」と考え込んだ。
しばらくして、竹中半兵衛重治はいきなり手を打った。そして驚き、次に感心し、「真田とは、なんと恐ろしい奴だ。先だって殿が遠計によって甲府方面に童歌を流行らせました。それで信玄が心を痛めたのですが、それを真田昌幸は秀吉様の謀略だと見抜いたようです。この歌は、秀吉様、つまりカエルがするような策略は幾度おこなおうとも、私が蘆の分け舟となって、謀略の穴を明らかにし立ち騒がせてやる、そういう意味の歌です」と秀吉に説明した。
秀吉は突っ立ち上がって憤り、「遠からずその昌幸の首を取ってやる」と、これ以上ないほどまでに立腹した。
竹中は笑って、「昌幸は忠臣です。主君である信玄に忠義を尽くして、敵である信長公に忠義を尽くすはずはございません。臣下として主君のために尽くすのは当然の理です。このような智謀の士を味方にすることこそ、良将の取るべき道です。なのにどうして殿はそんなにお怒りになるのですか」と言った。
それで秀吉は大いに笑い、「さっきのは冗談だ。このような知将をどうして前後の分別もなく殺してしまうというのだ。みてくれ、この秀吉が恩を施し、やがては私の幕下(=直属の家来)につけてみせよう」と言って、真田からの使者を厚くもてなし、はやばやと返事をしたためて、使者を送り返した。その深い心のほどは、すさまじいものである。
時は、永禄十二年(一五六九年)六月のことである。
こうして真田昌幸は使者が戻ってきたことを聞き、急ぎ呼び寄せて京での様子をたずね、「秀吉は、どのような返事をしたのだ」と手紙を開いてみると、手紙の文体ははなはだ丁寧にしてすこしも怒っている様子がみえなかったので、昌幸は心中に恐れをいだき、「本当に秀吉は地中の龍に等しい武士である」とますます心の内で感心してしまった。
*武田家と織田家は、同盟を結んでいた(一五六八〜七三)。信長包囲網の時に信玄が一方的にこれを破棄した。→三方ヶ原の戦い
*遠山夫人―信長の姪で、後に信長の養女となった―が武田勝頼の正室となっていた。また信長の嫡男、信忠と、武田信玄の五女松姫と婚約が成立していた(のちの両家の対立で解消)。