〜戦国武将エピソード集〜

新発田(しばた)治長(はるなが)のこと

 上杉謙信が蓮池まで攻め入って、「明日は鎌倉に赴こう」と軍評定(いくさひょうじょう=合戦の前に行う将帥等の作戦会議)をしていた。

 そのとき、当時十五歳であった新発田因幡(いなば=鳥取県東部)守治長が進み出て「このような配置なら、必ず我が軍は敗北するでしょう」と言った。

 すると上杉謙信は怒って、「よく考えもせず、口先だけで物を言うな」と言ったので、新発田治長は座り直して姿勢を正し、かしこまりながら「今日より主君と家来の間柄を終わりにして頂けましたら、私は小田原に馳せ参り、北条家の先陣として殿(との)を追撃いたしましょう。酒匂(さかわ)川のこちら側でたやすく討ち取ってさしあげましょう」と言った。

 上杉謙信は表情を和らげて、「あっぱれ剛の者よ。よくぞ申した。明日はお前が殿(しんがり)を務めよ」と命じた。

 新発田治長が「軍勢の配置は、これこれせよ」と指図したので、上杉軍はすぐ無事に小田原から引き返すことができた。

 謙信が亡くなり、上杉景勝の時代になった。

 新発田治長が謀反を起こしたので、上杉景勝はこれを討とうとした。しかし新発田治長は新発田城、五十野城の両城を守った。

 三年経って、ようやく城が落ちたると、新発田治長は染月毛(そめつきげ)という馬に乗り、三尺五寸(約百五センチメートル)ある光重作の刀を鞘から抜いて、大軍の中に駆け入って討ち死にした。

 この馬は極めて色が白い尾髪(おかみ=馬の尾とたてがみ)だったが、茜の汁を刷毛で塗って染めると、年月を重ねた後、深紅の糸をふりかけたように見えたということだ。井筒女之助がこの馬を手に入れて乗ったという。

 また上杉景勝が新発田治長を攻めているとき、新発田治長の配下に波多野忠左衛門という強力(ごうりき)がいた。

 上杉景勝が攻め寄せるのに、使用できる道は二つあった。その近い道の方には三淵といって、一騎討ちにはふさわしい嶮岨(けんそ=けわしいこと)な場所があった。

 波多野忠左衛門は上杉景勝が通ろうとしたとき、勢いよく組みついて刺し殺そうと思い、三淵の岩穴に隠れていた。

 上杉景勝が今まさに攻め向かおうとしたとき、皆口々に「近い方の道から押し寄せよう」と言った。だが上杉景勝は聞き入れず、「兵法に『迂を以って直とす(孫子の兵法「以迂為直」=遠回りをして近道をする→急がば回れ』というのがある。近い道の方は気がかりで、思いがけない危険がある」と言って、三淵は通りかからず、遠回りして進んだので、波多野忠左衛門のもくろみは無駄に終わった。

目次

常山紀談、035-1

常山紀談、035-2