〜戦国武将エピソード集〜

三好義継と松永久秀が将軍義輝を弑する

 永禄八年(=一五六五年)、三好義継と松永久秀が大和(=奈良県)と河内(=大阪府東部)から京都に討ち入った。

 五月十九日辰の刻(=午前八時ごろ)、室町将軍、足利義輝の館を囲んで乱入したので、防ぐ者たちは討たれたり、自害したりした。

 沼田上野介と福阿弥という者がいた。敵の合印(あいじるし=戦場で敵と見分けるため味方の旗や笠などにつけたしるし)である竹の葉を腰に挿して、外からまぎれ入り、足利義輝の前に参上し、「我らふたりをはじめとして防ぎ矢(=敵の進撃を阻止するために射る矢)を放ち、思う存分戦います。そのあいだに日頃愛していらっしゃる早足の馬にお乗りになって、東川原に駆け出しなされば、ご運も開かれることでしょう」と涙を流して言った。

「この上なく忠義の志、神妙にも申すことだ。だがお前たちが討ち死にした後、どうして私が生き残っていられるだろうか」と、足利義輝は散々に防ぎ戦って、ついには自害した。

 死に際に

「五月雨は露か涙かホトトギス

 我が名をあげよ雲の上まで」

(この五月雨は死にゆく私への露か涙であろうか。ホトトギスよ。私の名声を雲の上まで高く上げてくれ)

 と、自ら筆をとって書き残したということだ。

 足利義輝の弟に鹿苑寺(=金閣寺)の足利周嵩というものがいた。(三好義継と松永久秀は)平田和泉(=大阪府南部)守という者を足利周嵩の迎えに遣わして、彼が北山(京都、鹿苑寺のある場所)を出たところを道中で討ち取った。だが、足利周嵩のともをしていた十三、四歳の童がたちまちその平田和泉守を討ち取ったので、世の人は童をほめ合った。

これは、釈義俊が足利義輝を追善(=死者の冥福を祈るため遺族などが読経・斎会などの善事を行うこと)した和歌の序文にあると、扶桑拾葉集(=詞文集。三十巻三十五冊。徳川光圀編。一六九三年刊)に書いてある。しかし童の名は載っていない。のちに信長記を見ると、この人の姓名を記してあった。小川の住人、美濃屋小四郎といって、容貌が世に優れていたので(足利周嵩が)供にしていた。この事件に遭遇して、三条吉則の(銘が入った)刀を抜いて、平田和泉守の首を打ち落とし、手元に進む者五、六人切り伏せて、(自分も)腹を切って死んだとある。

目次

常山紀談、049-1

常山紀談、049-2