徳川家康は三河(愛知県東部)の一宮城を本多百助(ひゃくすけ)信俊(のぶとし)に守らせていた。
永禄七年(一五六四年)五月、その一宮城は、今川氏真の二万余りの兵に取り囲まれた。
今川氏真は二万の兵の内、八千をさいて、武田信虎を大将として、後ろ巻き(=味方を攻め囲む敵軍を、さらにその背後から囲むこと)への防ぎとした。
徳川家康は、一宮城が包囲されたと聞くと、一騎駆けで馳せ向かおうという様子だったので、「敵の兵力は、味方に比べ十倍はあるでしょう。ことに武田信虎は世間に名高い勇将でございます」と老臣たちが諫めた。
しかし家康が、「それはその通りであろう。とはいえ、人は貴賤(=身分)によってではなく、『信義』すなわち『信を守り、義を行う』というふたつの事がらによって身を立てるのが世の常である。敵が城を攻め落とし、そのまま壊して捨てるのならば、それでいいのだが、その城には既に味方を配備している。今更敵が大軍だからといって驚いていられるか。主君の大事は従者が助け、従者の危難(=命に関わるような災難)は主君が助けるというのが弓矢取りの道である。たとえ後詰め(=先陣の後方に控えている軍勢)に打ち負け、屍を戦場にさらすことになっても、それは運が尽きたというだけのことだ」といったので、これを聞いた人々は「ああ、何と頼もしい大将だ。この殿のためならば命を捨てること、露(つゆ)や塵(ちり)ほども惜しくはない」と勇み進む。
その勢いに乗って、二千ばかりの兵で敵の後詰めに立ち向かい、武田信虎の八千の兵がひかえているのをよそに見て(=自分に関係のない事として、無視してかえりみないでいる)、まっすぐに城の間近にまで押し寄せた。すると城内の者が競い喜ぶこと、限りなかった。
今川氏真が「それならば徳川軍の四方を取り囲んで、一人も残さず討ち取ってやろう」と評定(大勢の人が集まって相談し、決定すること)をはじめた。
その間に徳川家康は本多信俊を呼び寄せて、一宮城を出て引き返していった。
本多信俊は「今日の戦いは一命をかけて励みましょう」と、配下の四百あまりの手勢でもって武田信虎の軍に駆け合せ(=互いに乗馬を駆け近づけて戦う)、これを撃ち破り、勝利を得た。
酒井左衛門尉忠次(ただつぐ)、石川伯耆(ほうき=現在の鳥取県西部)守数正(かずまさ)、牧野右馬允(うまのじょう)康成(やすなり)は殿(しんがり=退却する軍隊の最後尾にあって、敵の追撃に備えること)となった。
追いかけようものなら、すぐに反撃し切り崩してやるぞという意志がありありと見えたので、今川氏真も追撃することができず、徳川家康は無事に帰陣(=陣屋へ帰ること。戦地から帰ること)することができた。
これは徳川家康、二十二歳のことである。