永禄十二年(一五六九年)、佐々木承禎(=六角義賢)が柴田勝家の守る所の長光寺城を囲んで攻めてきて、ついに総構え(=城の外郭、外側の囲い)を撃ち破った。
柴田勝家は本丸にて、これを先途(せんど=最期)と防戦した。
郷民(=里に住む民。村民)が六角義賢の陣に行って、「長光寺城は水源から遠く、遙かな場所から水を引いています。それをさえぎりさえすれば城はもたないでしょう」と告げ知らせた。
六角義賢は喜んで、長光寺城への水の供給を断ち切った。
城内は、この作戦に苦しめられたが、弱った様子は見せなかった。
六角義賢は城が水不足に陥っているのかを確かめるために、「和睦をしよう」と、平井甚介を使者にして城内に入らせた。
平井甚介は柴田勝家と対面し、「手を洗いたい」と水を求めた。すると小姓が二人がかりで、水の満ちた瓶を持ち出してきた。平井甚介が水をすくい手を洗い終えると、小姓は残った水を庭に捨てた。
平井甚介は六角義賢の元に帰って、このことを伝えると、水の供給を断ったはずなのに水に困っている様子がないので、皆不思議がった。
こうして長光寺城では水が無くなってしまったので、柴田勝家は「明日は城から打って出て、斬り死にしよう」と諸士を集め、最期の酒宴を開いた。残った水の量をきくと、二斛(こく)※ばかりの容量がある瓶をかき出した。
「それでは今から戦死するまでの間、喉の渇きを抑えよう」と人々が水を汲んで飲み終わったので、柴田勝家はなぎなたの石突き(柄の端)で瓶を砕いた。
夜明け方に城の門を開いて打って出た。
六角義賢は柴田勝家の反撃を思いも寄らなかったので、大敗北を喫した。柴田勝家は首八〇〇級あまりを得て、岐阜の織田信長に献上した。
柴田勝家はそのまま長光寺城に留まった。織田信長は感状を与えて、褒め称えることは一通りではなかった。
これより柴田勝家は「瓶割りの柴田」と世に称せられた。
中国における容量の単位。周代には一九・四リットル、隋・唐代には約五九リットル。宋代以後の一斛は約四八リットル。
斛=石なら、一石=一八〇リットル。