〜戦国武将エピソード集〜

中川重秀が和田惟政を討つ

 天正元年(一五七三年)に、将軍足利義昭と織田信長の関係が不和になった。

 和田伊賀(=三重県西部)守惟政(これまさ)は、将軍足利義昭の味方をして、摂津(=大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)の国に陣を構えた。

 信長は『和田惟政をはじめとして、誰々の首を取った者には、しかじかの恩賞を与えよう』と書き記して、札を立てた。

 中川瀬兵衛重秀は、このとき荒木村重に属していたのだが、この札を見るなり筆を取って和田の名前の所に点を付け(これは私が頂いたと)自分のフルネームを記した。そうして家に帰った中川重秀は、妻に向かって事の子細を話して、「万一、生きて帰ってこれたら、また逢うことができるだろう」と言った。

 それに対し妻はすこしも嘆く様子がなく、「それならばいくさの門出をお祝いしてください」と羹(あつもの=菜・肉などを入れて作った熱い吸物)をすすめ、酒を取り出した。

 その夜の子の刻(=真夜中の十二時頃)あたりに、中川重秀は和田惟政の首を取ってきた。

 荒木村重は大いに驚いて、「どうやってこんなにもたやすく和田惟政を討ち取ることができたのか」と言った。

 中川重秀は、「それはこうでございます」と答えた。「明日は必ず戦いが決するだろう。そうなれば討たれる者は少なくはない。どうせ同じく死ぬ命をこの夜の内に捨てたなら、和田惟政の首を取ることができるだろう。敵も明日の合戦を大事に思って、(兵に川のどこを渡れせればよいのか)、前もって淀川の浅い深いを瀬踏み(=瀬の深さを足を踏み入れて測ること)することであろう。しかし和田惟政は立派な大将だ。物見役である他の者に頼むはずがない。自ら行うに決まっている。ああ、そこを討ち取ってやるのに。しかし、私がもし討ち死にしたとしても、『大勢の敵の中に入って大将の首を取ろうとして討ち死にした』と人が言うのならば、我が武名が朽ちることもあるまい。そう思い定め、川を渡って、敵側の岸の柳の陰に伏して隠れて待った。案の定、和田惟政が(和田軍の)二陣目にひかえて淀川に出てくる所を、その兵の中に紛れ込み、ついに討ち取って川の中に飛び込み、逃げのびて、こうやって帰ることができました」

 これを聞いた人々が感心したこと、並大抵ではない。

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常山紀談、079