〜戦国武将エピソード集〜

高遠城が落城し、仁科信盛が戦死する

 天正十年(=一五八二年)、武田勝頼の弟、仁科五郎信盛は高遠城を守っていた。

 織田信忠は僧を使いとして、「武田勝頼の滅ぶ日が近いので、城から出てきなさい」と言ってよこした。

 しかし仁科信盛は怒って返答もせず、その僧の耳や鼻を切り落として追い出した。

 織田信忠は、「ならば攻めるぞ」と言って、高遠城に押し寄せて、激しく攻め立てた。

 城兵は討たれ、残り少なくなった。

 仁科信盛、小山田備中守昌成、渡邊金太夫照、春日河内守、原隼人、今福安左衛門、諏訪荘右衛門、以下十八名、十二間に七間の広間にこもり、火花を散らして戦う。

 織田信忠は浅黄金蘭(金蘭=金糸を絵緯として織り込み、それを主調として文様を表出した織物)の母衣をかけて塀に上がり、桐の枝にすがりついて指揮していた。

 その織田信忠を目指して、仁科信盛たちは、七、八度、撃ってかかる。

 この時、三十五、六歳ほどの婦人が緋威(ひおどし=鎧の威のひとつ。緋色に染めた革や組紐などで威したもの。【威】=おどし=鎧の札を糸または細い革でつづること)の鎧に薙刀をひっさげ、「諏訪荘右衛門の妻である」と名乗り、七、八人なぎ伏せて、自害した。

 仁科信盛をはじめとして、死にものぐるいに切ってまわったので、織田勢は攻めあぐねた。

 そんな時、森武蔵守長可が屋根の板を引き破らせて、(屋根から室内に)鉄砲を打ち込んだ。

 すると仁科信盛は床の間に上がり、腹を切ってはらわたをつかんで、唐紙(=ふすまの上張りに用いるので、唐紙をはった障子か、ふすま)になげうち、倒れて死んだ。

 その血の痕が後まであったという。

 小山田以下も、自害した。

 仁科信盛、この時十九歳であった。

 織田信忠がしがみついていた桐の木には槍刀の傷痕がびっしりとついて、大広間の天上も柱も、槍や太刀の痕があって、血に染まっていないところがなかった。

 庭に残っていた雪に血がかかって紫色になっていたということだ。

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常山紀談、110