〜戦国武将エピソード集〜

戸田半右衛門と山口小弁・佐々清蔵の功名

 高遠城へ、戸田半右衛門重政が一番に駆け入ろうとした時、赤母衣(ほろ)に金の戻り、竹の出し、戸張隠しのす戸、衝木(つきぎ)に当たって通ることが出来なかった。戸田重政が尻餅をついて倒れたその合間に、織田信忠の小姓である山口小弁、佐々清蔵が踏み越えて駆け入った。

 戸田重政はのちに人に語った。

「われらのような武功では、母衣、指物が木戸につかえるなど、思いつきもしないものだ。敵を見て攻めかかる時に、他のことは考えないものだ。もっとも優れた武勇の人ならば別のことよ」

 戸田重政は後に武蔵守と称し、関ヶ原で討ち死にした。

 信長がのちに山口小弁と佐々清蔵へ感状を与えたとき、まず山口小弁に自分の手で国久の刀を与え、次に佐々清蔵に長光の脇差しを与え「そなたの武功は誠に大功(=大きな功績)がある佐々成政の甥なればこそだ」と言葉をかけた。

 二条城で明智光秀が織田信忠を攻めた時、佐々清蔵は山口小弁にむかい「甲冑を着けずに死ぬのは、屍になったときに恥であろう」と言って打って出て、一人ずつ敵を切り伏せ、その屍を引き入れて武具をはぎ取って来て、また切って出て討ち死にしたという。

 ともに十六歳、容貌が世に超えて美しかったが顔に血が降り注ぎ髪が乱れていたのを、見る人がとりわけ惜しみあった。

 山口小弁は伏見のいやしい身分の子だったが、美少年だったので、召し出されたのだった。

目次


常山紀談、022-1