明智日向(=宮崎県)守光秀は、主君である信長を討ちたいと思うこと、久しかった。
天正十年(=一五八二年)六月朔日(=一日)の夜、(明智光秀は)明智左馬助秀満を寝所に呼び入れ、そばに仕える者を退けさせた。
明智光秀が言った。
「一大事がある。蚊帳の中に入れ」
「何事でしょうか」と、明智秀満は頭を蚊帳の中に差し入れて、言った。
「お前の首をくれないか」
明智光秀が言った。
これを聞いた秀満は問う。
「私一人だけですか」
「三人の命をもらってもまだ足りないのだ」
光秀は言う。
「たいへんに簡単なことでございます。(光秀様の)大事は成し遂げることができるでしょう」
秀満は言った。
「どうして分かったのだ」
光秀が問うと、
「今、新たにおっしゃったことと、日頃の(光秀様の)恨みを思い合わせみたのです」と秀満は言った。
「今こそ信長を討とうと思っている。ひとえにお前を頼みに思うぞ。まずお前に語ろうと思ったのだが、むしろ諫め争うことになろうと思っていた。お前と力を合わせなければ、志を遂げることが難しいだろう。私に従わない場合はお前を斬ろうと思っていた」と言って光秀は盃を出す。
「(光秀様が)真っ先に私一人に語っていたのならば、諫め申したでしょう。すでに他にも語っているのでしたら、駟(し)も及ばずと申します。漏れ聞こえて臍(ほぞ)をかむのはつまりません。はやく出発しましょう」
ということで、夜半ばかりに、いきなり軍兵を出した。明くる二日の曙(=明け方)に信長が宿泊していた本能寺を取り囲む。
「何事だ。物騒がしい」
と、森蘭丸長定が白い帷子(かたびら)の上に浅葱色(=緑を帯びた薄い藍色。淡いネギの葉の色の意)の鹿の子(=絞り染めの一つ。鹿の子絞り。布地を小さくつまんで根本をくくり、染色液にひたして染めたもの。シカの背の白いまだらに似た模様ができることから。)の小袖を羽織って立って出て行って見ると、壁の外に水色の旗が見える。
「敵は誰だ」
信長が問いかける。
「明智でございます」
蘭丸が言い終わらないうちに、箕浦(みのうら)大蔵、古川九兵衛、天野源右衛門ら、大庭に乱入する。信長は白いひとえもの(=裏をつけないで仕立てた着物)を着て、弓を持って、射るのだが弦が切れた。臙脂(=紅花からとった紅色の顔料)地の帷子を着た二十七、八才ばかりの女房が十文字の槍を持って来たのを信長は押っ取り、しばらくの間、敵を防いでいたが、(部屋の)中にさっと入って障子を引き立て(=引いてしめること)た。しかし燭台の残り火で、信長の影が(障子に)映っているのを見て、天野源右衛門が槍を取りのばして信長を刺し通した。蘭丸の弟に十七歳の坊丸と十六歳の力丸がいた。そのふたりが切って出て討死にする間に、(信長は部屋の)中から火をかけ(本能寺は)灰燼(=灰と燃えさし)となった。
※駟(し)も舌に及ばず 言葉の伝わるのは非常にはやいもので、そのはやさには四頭立ての馬車も及ばない。言語は慎むべきものだ。【広辞苑】(出典:惜シイカナ、夫子(ふうし)ノ君子ヲ説クヤ、駟モ舌ニ及バズ。〔論語・顔淵篇〕)