武田信玄が死んだことは深く隠されていたので、北条氏政が漏れ聞いて謙信のもとへ告げてやった。
上杉謙信は春日山城で湯漬け飯を食べていたが、これを聞いて驚き、箸を捨て、飯を吐き出し、「英雄とはこの人のことだ。関東武士の柱を失った」と惜しんだ。
武田信玄は、将略(=戦陣における、将としての知略)が上杉謙信に及ばないため、高野山の成慶院で大威徳明王の法を修めて、上杉謙信を呪詛(じゅそ=うらみに思う相手に災いが起るよう神仏に祈願すること)したのである。その時の文書は今も高野山に伝わっているという。
武田信玄の勇才は、人に越えていたと称(たた)えるべきだろう。
とはいえ、父(=武田信虎)を追放し、子(=武田義信)を殺し、降将(=降参した将軍、諏訪頼重)を殺して、その娘(=諏訪御料人)を妾(=側室)とし、その他にも不仁(=仁の道にそむくこと)や怨毒(=うらみ憎むこと)は数え尽くすことはできない。
仮にこの二つの事柄を合わせみても謙信と信玄の二将の賢否(=賢いことと賢くないこと。賢愚)は、論ずるまでもなく明らかだ。
また、甲陽軍鑑に記されているものは、付会(=もともと関係のないものを、むりにこじつける)や詐偽(=真実でないこと。いつわり)によって無理にこしらえだしたものであり、武田信玄の悪行を隠し、他(の武将)をないがしろにしていて、これもまた数え尽くすことができない。
一例を挙げて論じてみると、(甲陽軍鑑には)北条と戦う戦うごとに利を得た、とあるのだけれど、北条五代記に記されているのは、武田信玄が川中島(川成島の間違い、静岡県富士市川成島、一五七〇年六月のこと、退却した武田の軍旗を北条が持って帰った)に陣を敷いたとき、北条氏康が夜討ちをして、甲州(=山梨県)の兵は敗北し、八幡と書かれた旗を捨て甲州に逃げ帰った、とある。
甲陽軍鑑では、これでは差し障りがあるので、津波に旗を取られたと記している。たとえ北条五代記の説が誤りだとしても、津波に旗を取られるのは、陣所の地理に暗いからであろう。