〜戦国武将エピソード集〜

 筧(かけい)平三郎が手柄を立てて名をあげたこと

 織田備後守信秀(=信長の父)は松平三左衛門忠倫(ただとも)と密かに謀って、岡崎城を攻め取ろうとした。

 この策略が岡崎城にも漏れ聞こえてきたので、應政公(おうせいこう、松平広忠=家康の父)は非常に憤慨した。筧平三郎重忠(しげただ)を呼びつけて「上和田(かみわだ)に行って、降参したふりをして忠倫を刺し殺して来てほしい。ひたすら、そなたを頼りにしているぞ」と命じた。

 筧は「承りました」と言って、上和田に到着すると、降参したふりをしてだましたので、忠倫は岡崎の武士の中に内通する者がいたのを知っていたけれど、筧兄弟を味方につけるちょうどいい機会なので、たいへん喜んで懇ろにもてなした。

 こうして夜が更けた後、屋敷内部の様子をよく観察してから、忠倫の所に忍び寄って、広忠から与えられた脇差(わきざし=小太刀)で脇腹を二刀刺して、屋敷を逃げ出した。

 平三郎の弟である助太夫正重(まさしげ)も兄のあとを追って上和田に到着しており、からぼりの中にかくれていた。そうして兄が戻ってくるのを待って、兄を連れて岡崎に帰った。上和田の者たちは追いかけたけれど、間に合わなかった。

 筧平三郎には広忠から感状(戦功などを賞して主君から与えられる文書)と、羽栗(はぐり、三河国額田郡羽栗村)の土地、百貫(鎌倉時代以降の武士の知行高の単位。一貫は一〇石にあたる)が与えられた。

 これは天文十六年(一五四七年)十月のことである。

 慶政公(松平広忠)は東照宮(徳川家康)の父である。

▽一説には、脇差を与えられたとき、「これで忠倫を刺殺せよ。体をつらぬいた刃を抜こうとしたら、相手は必ず声を出すだろう。そうなれば周囲の者も起き出し、追いかけてくるから、そなたも逃げ切れまい。脇差で突き捨てて速やかに逃げ帰るがよい」と命じられた。だが平三郎は、頂いた脇差を捨てるのは本意ではないと思い、抜いてから逃げた。案の定、忠倫は声をあげ、人を呼んだため、皆、起き上がり追いかけてきたが、平三郎はとっくに逃げ出して帰ってきたという。  別の説では平三郎が忠倫が所持している平安城長吉(へいあんじょうながよし)の刀を持ち帰り、それを忠倫を刺し殺した証拠としたので、広忠はその刀を平三郎に与えたという。

目次

常山紀談、007-1

常山紀談、007-2