〜戦国武将エピソード集〜

佐伯惟常(これつね)が高崎城を乗っ取ること

 天文(一五三二年〜一五五四年)の元号の時に、(よしかね)の家臣、朽網(くたみ)下野(しもつけ)親満(ちかみつ)が謀反(むほん)を起こして高崎城(大分市と別府市の境界である高崎山に位置する)の二の丸を乗っ取って立てこもった。

 大友家の直属の家臣である佐伯惟常は、これを聞くと杵築(大分県北東部、国東半島南岸に位置する)から馳せて来た。

 佐伯は日頃から鷹狩りを好んだ。それは狩りのを楽しむというより合戦のためである。狩りに出かける日には、途中で使いを走らせて家臣たちを呼んだ。

 武将たちは騎馬の軍兵を引き連れて即座にやってくる。槍や弓の持ち主であれば、足軽集団を率いて駆け集まった。このため不意の時であっても騒ぐことはなかった。半時ほどの時間があれば、数日前から命令するよりもかえって陣列が整って、静かで落ち着いていた。

 使いに走らす者は、勢いがあって活力のある者を三十人選んで、馬の前に連れていた。常に駆け足になるが、息も長く健脚であり、馬にも劣らないほどである。

 この親満の乱のとき、佐伯の家臣には、杉谷次郎太郎、杉谷次郎三郎という兄弟がいた。兄弟はともに一番乗りを目指した。そのため攻撃前に、高崎城のどの壁がよじ登るのにいいだろうかと、よく注意して遠目に城の構造を調べた。すると壁に角があって、そこがいいだろうと目を付けた。そして槍の柄を四、五ヶ所、縄で結んで足を置ける所をつくった。

 高崎城を一斉に攻撃する時がやってきた。杉谷兄弟はあらかじめ当たりを付けていたその場所に、走りつくやいなや、槍を立てかけて、壁を登り越え、一番乗りを果たした。

 *朽網親満の反乱は江戸期の歴史書には天文一三年(一五四四年)となっているが、最近の研究では一五一六年(永正十三年)に起きたとされている。

 

目次

常山紀談、008-1

常山紀談、008-2