〜戦国武将エピソード集〜

北条氏康(うじやす)が弱いふりをして勢いに乗ったこと

 上杉憲政(のりまさ)が関東八州の豪傑八万騎を率いて、北条氏康を討とうと南下してきた。

 氏康も出陣して、入間川の南に陣をしいたが、上杉氏の兵が来て待ちかまえていると聞いて、氏康は戦わずして逃げて、小田原に戻った。

 敵に放ったスパイで小田原城に帰還した者に向かって氏康はたずねた。

「敵の者たちは何と言っている?」

「敵が皆、笑って言うには『こわっぱ(=小童、年少者をののしっていう語)が必死になって逃げたぞ』と、そのように申しておりました」と、そのスパイは答えた。

 こうして小田原に五、六日ほど居てから、氏康はまた入間川の南へと出陣したのだが、敵が来たので、先日と同じように一戦も交えないで逃げ帰った。

 そしてまた、敵陣に放っていたスパイを迎え入れて敵の様子をたずねた。

「敵が言うには『もうこわっぱも、(あの怯えようからいって)我々に攻撃をしかけてくるはできまい。万が一、こわっぱが出陣してきても、奴は今までと同じように必死で逃げるだけだ』ということで、だれも北条方の攻撃の心配をしているものはありませんでした」

 これを聞いて氏康は言った。

「敵がすっかり油断した今こそ、絶好のチャンスである」

 その夜、氏康は将兵を集めて自ら直接、彼らに言った。

「戦いというものは兵が多いといっても必ず勝てるわけではなく、また兵が少ないからといって必ず負けるというものではない。ただ兵が心を合わせて戦うことができるかどうかが肝要なのである。そのため知将は時には小人数の敵に怯えたり、また逆に、大軍の敵に勇ましく心が奮いたつことがあるのだ。

 私はたびたび上杉氏と戦ってきた。常に我は一人でもって敵の十人と戦ってきた。少数が多数と張り合う。これは今夜が初めてのことではない。

 勝敗の分かれ目は、この一戦にあり。者どもよ、みな互いに心をひとつにし、力を合わせて、ただ私が向かうところを目指して進め」

 氏康は兵たちにすべてに白い布を鎧の上に固く結び締めさせ、そして言った。

「鎧が白でない者に出会えば、すぐに斬りかかれ。しかし、あえてその首を取ってはいけない。首をとることにこだわるのは、自分ひとりの武功を欲しがっているだけだ。全体の戦況からすれば、既に斬り殺した者の首を取る時間を有効利用して、新たに生きた敵を討った方が、勝てるチャンスが大いに増えるのだ。そこの所をきちんと理解してくれ」

 命令が終わり、人は枚(ばい=昔、夜討の時などに、声を立てないようにするため人馬の口に横に銜ふくませ、紐でくびに結びつけた箸状のもの【広辞苑】)をくわえ、馬には「*□子=ひょうし」を被せた。

 真夜中は十二時になった頃、北条軍は川を渡った。そしてその北条軍がときの声を大きく叫んで、いきなりしゃにむに突撃してきたのだから、上杉軍はたまらない。油断していたところに不意打ちを食らった兵士たちはたいへん驚き、ある者はつないだままの馬にむちを撃ち、ある者は弦がきれた弓を取り、ある者は一本の槍に三人が手をかけ奪い合いになり、もめたりもした。

 そういったごたごたを表現する言葉が見つからないが、そういった状態に陥っている上杉軍を、氏康の兵が縦横に奮撃したので、ひとりの兵が百人の敵とぶつかることはなかった。最後には二万人あまりの敵兵を殺傷し、上杉朝定(ともさだ)を捕虜にして、上杉晴氏(はるうじ)、上杉憲政を潰走させた。関東八州の豪傑のうち、その夜、氏康に降った者は九十余りの姓にまで及んだ。

 この夜、上杉方の難波、小野などという武将は皆、戦死したが、本間なんとかという者が単騎で踏みとどまって戦っていた。本間はその体つきが魁偉(=からだが人並はずれて大きく、いかついさま)で、九燈=九つの灯火を竿に重ねてつなげて、それをさしもの(=当世具足の背の受筒にさし、戦場での目標とした小旗または飾りの作り物。旗指物。背旗【広辞苑】)にして「私はこのともしび旗でもって、暗主(=愚かな主君)の暗やみを照らす」と言った。

 そして北条方の武将、大道寺駿河守と戦ったのだが、双方の実力はいずれも優(まさ)らず劣らずで、その勝敗がつくのがいつになることか分からないほどであったが、本間が先に手を引いて、「どうした」と言う大道寺に「少し待ってくれ」と、本間は背中にさしていた九燈をはずして、それを大道寺に授けて、「私は二度とこの九燈を用いることはない。貴殿がこれを用いて旗印とし、北条殿によく仕えてくれ」と言ってから、死んだ。

 大道寺はこれより九燈をもって旗印にしたという。

 ※関東八州=相模(さがみ)・武蔵(むさし)・安房(あわ)・上総(かずさ)・下総(しもうさ)・常陸(ひたち)・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)の八ヶ国。

 *(□の漢字は「金偏に旁が鹿で脚が「れんが」、unicode 9463、ヒョウ、くつわ)

目次

常山紀談、018-1

常山紀談、018-2

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