〜戦国武将エピソード集〜

真田昌幸(まさゆき)が智謀で北条勢を破ったこと

 薩捶嶺(さつたとうげ)の役の初戦で、武田方の先鋒、山県(やまがた)昌景(まさかげ)は大敗北を喫した。

 そこで武田信玄は先鋒を繰り替えて、真田安房守(あわのかみ)昌幸を次回の先鋒としたところ、昌幸はわずか二十八騎の手勢を従えて、敵陣を偵察しに向かった。

 北条勢は山県に勝利して、たいへん戦意盛んな様子で、薩捶嶺倉沢山に陣を取り、山風に旗指物(軍旗)を翻して悠然と構えていた。

 昌幸は密かに敵陣をうかがい、何やらしきりにうなずく様子を見せたが、すぐに馬を返して自陣に戻った。

 そして兄、信綱(のぶつな)を呼び寄せるために使いを送った。すみやかに信綱は穴山、木辻、浅見、根津、望月、樫山など一騎当千の兵、八百人あまりを従えて昌幸の陣所にやってきた。

「よきところへ来られた」と前もって準備しておいた酒宴の席を開いたので、信綱は訝(いぶか)り、「弟よ、お前はどのようなはかりごとをもってこの北条の大軍を破ろうとするつもりなのか。これほどの大軍を前にして酒席を開くなんて私には理解ができない」と言った。

 昌幸は笑って、「はかりごとは密なるをもって良しとします。だから今は言えません。まずは気を静めて酒を飲んでください」と言った。

 信綱は「弟は今回はどんな策略を用いるのだろうか」と思いながらも酒席に参加した。

 しばらくして昌幸が布下彌四郎を呼びつけ、「布下よ、すまないがこの近辺で酒を集めてくれないか。さあ、はやく、急いで」と命じたので布下は「かしこまりました」と急いであっちこっちを駆け回り、数多くの酒を手に入れて戻ると、昌幸はたいへん喜び、ことごとく酒樽のふたを打ち抜かせて、これにひしゃくを添えて、諸兵を呼び出した。

「皆の者よ、とりわけ今日はあまりの寒さに耐えがたいではないか。だから皆、集まって、この酒を飲んで寒さをしのいでくれ」

 昌幸はそう言ってご飯を炊く大釜に味噌汁を沸かせて、ひとり一人にひしゃくを与えたので、一同の者が喜ぶこと限りがなかった。

「大将からのお許しで、寒さをしのぐうれしさよ」と我先に酒を飲み、舞を舞う者もあれば歌を歌う者ものいて、いかにも勇ましいように見えた。

 信綱は苦々しい様子で昌幸に面と向かい、「これはどういう振る舞いだ。陣中において諸兵に酒を飲ませるとは、このいくさ、負けたも同然だ。いくさの前にこんなふざけた儀式は無用だ」と言った。

 昌幸は答えた。

「どうか先々を見てください。私は胸に一計があるのです」と昌幸は答えた。そして将兵たちを呼び、「どうだ皆の者、酒を飲んで寒さを忘れたか」と問いかけると皆一同に「寒さが吹き飛びました。大将のお情けにより、寒さをしのぎ、手足が温まりました」と舌鼓を打ち鳴らして、笑い楽しむ様子であった。

 そこで昌幸は指をさして、「皆、あれをみよ。薩捶嶺倉沢山の峠に配備された敵兵は、さぞかし寒いことだろう。弓を引くにも鉄砲を撃つにも手はかじかんで、兵は前進するにも後退するにも不自由するだろう。平地にいるお前たちでさえも寒さがはげしいのに、山中に陣取る敵は酒で体を暖めていないのだぞ。我らのこの勢いであの敵にひと攻撃くわえてみようと思うのだが、どうだろう」と言ったので、皆、躍りあがらんばかりに勇み立ち、「これこそ我らの望むところだ。酒を頂いたかわりに手柄を立てて、敵の首をさかなにして、ふたたび祝いの酒席を開こうではないか」と、足に力を入れて地面を踏みならして喜んだ。

 昌幸は「では、突撃だ」と命じて、真っ先に馬で駆けたので、「何をためらっているのだ。我らもひけをとるな」と三千あまりの兵が酒の勢いをかりて、興津川を渡って薩捶嶺へ押し寄せ、登った。

 ちょうどそのとき、雨あられが降ってきて、その寒さはひどいものであった。しかし真田勢には、そんな寒さは今さらどうということもなく、大声で叫んで敵陣に押し寄せた。昌幸が思った通りに、雨あられが降って寒さが本当に厳しかったので、峠でひかえていた北条勢は寒さをしのごうと皆、峠を下りて民家へ入って、どの陣所にもただ旗差物だけが刺さっている状態で敵兵は一人もいなかった。

 そこで昌幸は「すべての小屋に火を放て」と命じた。「勝利品である、鎧などの武具は好きなだけ手に入れていいぞ。各々が手柄を立てるのはこのときだぞ」と大声で呼びかけた。

 すると皆、勇気が日頃の十倍は出て、次から次へと火を放ったので、北条勢は非常に驚いて、残った兵士たちは我先に逃げ去っていった。

*薩捶(捶は代用漢字。本来は「てへん」でなく「つちへん」)――現在の静岡市清水区興津井上町にある峠。薩捶山が駿河湾に押し迫り、東海道を抑えるための軍事上の要衝。この戦いでは、武田軍と北条軍が興津川を挟んで向かい合い、薩捶山一帯の広い範囲に北条軍の陣が敷かれた。

目次

常山紀談、023-1

常山紀談、023-2

常山紀談、023-3