〜戦国武将エピソード集〜

徳川家康、大高城から退却したこと

 今川義元が討ち死にしたとき、徳川家康(=当時は松平元康)は大高の城にいた。

 苅谷(かりや)城の水野下野守(しもつけのかみ、下野は現在の栃木県)信元(のぶもと)とその家臣、浅井六之助道忠(みちただ)が大高城にやって来た。

 そして「桶狭間にて今川義元の軍が敗れ、今川義元も命を落としました。今川方はどの部隊も手に入れた城を手放して退却しています。ここは危険ですから一刻もはやく岡崎城に退かれるように」と告げてきた。

 「はやく退却しましょう」と部下たちが騒ぐのを聞いて、家康は「水野信元が私の母の兄弟なのは誰でも知っていることである。しかし今は、水野信元が織田方で、私は今川方で敵味方にわかれているので、ひょっとすると私をだまそうとする調略なのかもしれない。それに気づかずこの大高城を明け渡して退いたとしたら、逃げ帰ったと言われるだろう。それは弓矢取る身として恥辱であり、後の世まで笑いぐさとなる。浅井をここに押しとどめておいて、味方からの報告を待ち、今川軍の正確な情報を確認してから、三河へ退却しよう」と言った。

 家康はそれまでは大高城の二の丸にいたのだが、本丸に入って、それまで通り任務に戻り、この今川義元による尾張侵攻作戦で、家康が担当している大高城近辺の様子に気を配った。

 夜になり、岡崎城から鳥居(とりい)伊賀守(伊賀は現在の三重県西部の上野盆地一帯)忠吉(ただよし)が今川義元の戦死を告げに来た。今川家の者たちは皆、駿州(すんしゅう=駿河国)に逃げ帰っているという報告を受けて、家康は「こうなった以上、兵を退却させよう。しかし今は真っ暗闇で隊列が乱れ、収拾がつかなくなる」と、月が出てくるのを待ってから三河、家康の軍は城を出た。

 このあたりの地理に詳しい浅井に道案内をさせて、池鯉鮒(ちりゅう=現在の愛知県知立市)の厩(うまや)に到着した。

 苅谷城からも敗走兵を討つために兵が出ていたし、所々で武装した農民が落ち武者狩りをしていた。そのため浅井が馬に乗って近づき、「水野下野守(しもつけのかみ)の使者、浅井六之助が道案内をしている」と大声で叫んで伝えたので、皆、道を開いて、三河家康軍は何事もなく、夜中には岡崎の大樹寺まで退却できた。

 後殿(しんがり=軍隊が退却する際の最後尾の部隊。追っ手からの攻撃を防ぐ役目を担う)は大久保保五郎右衛門忠俊(ただとし)であった。

 そして翌日には岡崎城に入ることができた。

 岡崎に入ってからは案内役が必要ないので、家康が押しとどめていた浅井は池鯉鮒のところで帰した。大高城から引き揚げるときに家康が世話になったということを示す、後(のち)の証拠として、浅井は家康から扇子を裂いた、その一部をもらった。それは扇子の骨六本だったので、長く浅井家の家紋にした。この信義に厚い家康の振る舞いに人々は懐き、従った。

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常山紀談、029