永禄年間(一五五八〜一五六九年)のことである。備前(=岡山県南東部)上道郡龍口山の城に、最所(さいしょ、最には禾へんがつく)治部(じぶ)元常(もとつね)という者がいた。このとき宇喜多直家はすでに浦上家を滅ぼし、沼城に居て、最所元常とは姻戚関係にあった。
しかし最所元常は毛利家に説得されて毛利家と手を結び、宇喜多直家にそむいた。
直家は最所元常を討ち滅ぼそうと思ったが、龍の口は峰高く、大きな川が麓を取り囲むようにして流れ、地勢がけわしく、敵を防ぎ味方を守るのに便利な地であった。たとえ力攻めをしても落ちそうになかったので、矢津に砦を構えて、そこに兵を置いた。
直家は家臣の岡(おか)剛介(ごうすけ)という智謀にすぐれた者と、密かに、龍口城を落とす謀略についての申し合わせをした。
そしてある時、直家は「岡剛介には、しかじかの罪があるので、捕らえてこい。首を刎ねてやる」言ったので討ち手の者たちが捕らえに向かったのだが、すでに岡剛介は出奔(=逃げ出して姿をくらますこと)していた。
岡剛介を取り逃がしてしまったと知ると、宇喜多直家は偽りの演技をして、怒ること、並大抵ではなかった。
岡剛助は備中(=岡山県の西部)に隠れていたのだが、西郡(にしごおり)の中ほどに来たとき、乞食の老女が道に横たわっているのに近寄って、「これは何と、こんなところで出会えるとは思いもかけなかったですが、それにしても無事でいらっしゃってくださったことよ。長年できるかぎりのことをして、たずね探していたのですが、こうやってめぐりあえて、たいへんにうれしいです。けれどもひどい格好ですね。さぞかし私のことを見忘れていることでしょう。私が幼い頃に生き別れになった懐かしい母上よ」と連れて帰った。
乞食の女は怪しいとは思ったけれども、急に裕福な身の上になったので、(自分が母でないことを岡剛介には伝えず)知らぬ振りをしていた。
しばらくして、岡剛介は龍の口山の川向かいにある金山寺(かなやまじ)山の谷山船山城、城主、須々木(すすき)豊前(ぶぜん)の下で仕え、探し出した乞食の老女を「私の母です」と言って、人質として差し出した。
須々木はわけあって最所元常とは仲が悪かった。
あるとき須々木が東国から黒い馬を手に入れた。岡剛介はその馬を盗み出して飛び乗り、山の下へと馳せ下る。城の中からは「どうして馬に乗るのだ」と呼び戻す声がしたけれど、岡剛助は聞き入れず、枚石(ひらせ)川原(かわら)を東へと駆けて行けば、須々木も矢倉に上り、岡剛介の逃げる様子をみて「憎き奴め、討ち止めよ」と命令したけれど、とっくに川を渡って、龍の口の城に馬に乗ったまま駆け上がっていた。
岡剛介は言った。
「私は船山城の須々木の配下でございましたが、理由もないのに死罪を申しつけられたと、人が知らせてくれたので逃れて参りました。あれをごらんください。私の追っ手たちが川の向こうに大勢います。城内にかくまってください」
最所元常はともかく岡剛介を、山の草木の茂みの下かげに隠れさせた。
須々木の配下の者たちは、岡剛介にだまされたとはしらず、あの乞食の老女を川原に引きずり出し、「戻らなければお前の母を殺すぞ」とめいめいが叫び声を上げた。
岡剛介が「あの老女は私の母です。たとえ私が戻ったとしても、母子ともに殺されるのは決まっています。どうせ捨てた命です、私のこの命を殿に差し上げて、母を殺される怒りを須々木を討ち取ることではらしたいと思います」と言っているうちに、須々木の配下の者たちは、岡剛介の母とされる女を磔(はりつけ)にして殺してしまった。
岡剛介は悲しみ、怒り、「母のかたきは目の前にいる。どのようにしてこの恨みをはらせばいいのか」と歯をくいしばって嘆いた。それを見た最所元常も彼を信用して心を許した。
岡剛介はいかにも賢い男なので、そんなに年月が経たないうちに、最所元常の密謀(=ひみつのはかりごと)を打ち明けられるほど、気に入られた。
岡剛介は、今がチャンスだと、宇喜多直家に決行する日を決め、その日に矢津の砦の兵を龍口城の本丸北側の川向かいに出し、それから、こちら側の岸に小舟を一艘、隠しておいてほしいという合図を送った。
龍口城、本丸の北の方に、閑所(かんじょ=人気のない静かな場所)があって、そこは最所元常が軍評定する場所である。その夜も最所元常はこの場所の欄干によりかかっていたのを、岡剛介はさっと近づくと引き組んで一緒に下に転び落ちた。前もって用意していたことなので、落ちた場所で最所元常を一刀のもとに刺し殺し、岡剛介自身も落ちたときに体を打って痛めていたけれど、最所元常の首を取って、隠してもらっていた小舟に乗り、逃げ帰って、宇喜多直家の元に戻った。
最所元常が死んで、その後、龍口城も落ちたので、宇喜多直家は兵を入れて龍口城を守らせた。