宇喜多直家は和泉守(いずみのかみ)であった宇喜多能家(よしいえ)の孫である。
直家の祖父の能家は浦上掃部助(かもんのすけ)村宗(むらむね)に仕えて、備前(=びぜん=現在の岡山県南東部)邑久(おく)郡にある砥石城を居城としていた。浦上の重臣、島村豊後守(ぶんごのかみ、豊後は現在の大分県の、北部を除いた大部分)という後に仏道に入り貫阿弥(かんあみ)と名乗った鷹取(たかとり)山の城主は、当時威勢をふるっていたのだが、その島村貫阿弥が能家を殺害した。
享禄四年(一五三一年)に、浦上村宗は細川高国に加勢して戦っていた摂州(せっしゅう=摂津国、現在の大阪府の一部と兵庫県の一部を含む地域)で討ち死にをしてしまった。
浦上村宗の子、与次郎は幼少だったので、居城三石(みついし)は播州(ばんしゅう=播磨、はりま、兵庫県の南西部)との境にあって敵に近いので、和気(わけ)郡天神(てんじん)山に移った。
与次郎は浦上遠江守(とおとうみのかみ、遠江は現在の静岡県西部)宗景である。
その浦上宗景が年を取った頃には、備前(びぜん=現在の岡山県南東部)の全域と美作(みまさか=現在の岡山県北部)の半分を従わせた。
宇喜多能家の子を興家(おきいえ)という。父、能家が島村貫阿弥に殺されたときに出奔(しゅっぽん=逃げ出して姿をくらますこと)し、はなはだ愚かだったので備中(びっちゅう=現在の岡山県西部)辺りをさまよい、乞食同然のありさまであったが、備前に戻り、門前町である西大寺や福岡の町あたりに居着いていたところを、興家の父である宇喜多能家と親しかった阿部善定という者が引き取って養った。しかし興家があまりに愚かだったから牛飼い童(うしかいわらわ=牛車の牛を扱う人)とした。
年が経ち、興家は召使いである下女を妻として、子どもが三人できた。直家、忠家、春家である。
天文五年(一五三六年)に興家は死んだ。
三人の子供のうち、八歳の直家は阿部善定の家に引き取られ、六歳の弟の忠家と四歳の春家は、笠加(かさか=現在の岡山県瀬戸内市邑久町にあった村)の尼寺で比丘尼(びくに=出家して具足戒を受けた女子)になっていた伯母(直家の母の姉)が引き取った。
直家は生まれつき物静かな性格だったが、十一歳のころから急に愚昧(=愚かで道理が分らないこと)な人間になって、ほんとうに菽麦(しゅくばく=豆と麦)を弁(わきま)えなかった(=豆と麦の区別がつかないこと。おろかで卑近な物事の区別をも知らないことのたとえ)。
天文十五年(一五四六年)に直家は十五歳になった。母の所へ行くと、母は涙を流した。
「三人のなかで直家は一番上の兄なのだから、せめて人並みであってほしいと思っていたのに、とてつもなく愚かな人間に育ってしまった。人並みならば殿様(=浦上宗景)に頼んで草履取りとして奉公させるつもりだったのに。どういう因果でこんなつらい現実を見なければならないのだろう」と打ちしおれていた。
直家は母の様子を見て、そばに近寄った。
「母上、実は私は愚かではありません」
母はそれを聞いて、「お前はそれほど愚かであっても、それでも自分では賢いと思っているのかい」といよいよ嘆いた。
「けっして誰にも言わないでください。私には成し遂げなければならない大事があるのです。もしこのことを漏らされたら、私の願いはかなわなくなるでしょう」
「それはどんな事なの」と母はたずねた。
「よく聞いてください。私の祖父、宇喜多能家は島村貫阿弥に殺されました。私の父は、敵(かたき)討ちをすることができず、口惜しかったことでしょう。どうにかして祖父の弔(とむら)いたいと思っているのですが、それには島村貫阿弥を殺すのが一番です。しかし、もし私が賢いと島村が聞いたならば、身の危険を感じてすぐに護衛をつけるでしょう。ただ島村の警戒が厳しくならないように気をつけて、作戦を練り、祖父の恥をそそぎたいと思っているのです。もう十五になりました。母上、私が浦上宗景(むねかげ)様に奉公できるように取りはからってください。けっして私が島村を討とうとしていることは誰にも言わないでください」
そう直家が言うと、母親は驚き、そして喜んだ。それから密かに浦上宗景に頼んで、直家は初めて仕えた。
直家がこのような智謀の持ち主だったので、浦上宗景は彼を寵愛し、乙子(おとご)城を任せた。このとき直家は三郎右衛門と名乗っていた。
そのころ中山信正(のぶまさ、備中守だったので中山備中と呼ばれた)は浦上宗景の家臣として沼城(=亀山城)を領していたが、謀反の疑いがあった。そこで浦上宗景は直家と密談をした。
直家は、「私は中山信正の娘を妻としています。中山家とは姻戚関係にあり、つまり中山信正は私の舅です。それなのにその舅を殺せということですが、それは私が殿のご命令であるならどんなことでもして差し上げることを殿が知ってくださっているからのことでございましょう。力の限りがんばってみましょう。ただひとつ、お願いがあります。それを許可していただきたいと思います」と言った。
浦上宗景は喜んで「なんでも望むがよい。いう通りにしてやろう」と言った。
「私の祖父は浦上家への忠義をつくして功労を立てた人間でしたが、島村貫阿弥が個人的な理由で、私の祖父を殺害しました。島村貫阿弥は殿を軽んじる人物ですから、私がお願いしなくても、必ず成敗されなければならない者です。祖父の敵(かたき)討ちの許可をいただいて、島村を殺害いたしたいと思います」と直家は告げた。
浦上宗景はこれを聞いて「島村貫阿弥がそなたの祖父を殺したとき、私は幼かったので、島村貫阿弥は権威をほしいままにしていた。今でも私は憎く思っている。十分に計画を練って、島村貫阿弥と中山信正のふたりを討ってくれ」と言った。
中山信正の居城である沼城の近くを流れる川の東側に茶園畑というところがあった。直家はここに茶店を設け、鷹狩りに出て日が暮れれば、ここに入って眠った。また沼城に行って、舅の中山信正に対し、たいへんうち解け、親しみを持っているように見せた。
ある時、直家は中山信正に願い出た。
「川をよけて南から回れば遠回りになるし、この川が邪魔です。茶園畑から直接川を渡りたいと思っています。そのために仮橋(=時的に架ける代りの橋)をかけさせてください。普段は取りはずしておいて、往来する時だけかけたいと思います。」
中山信正は「たやすいことだ」と直家の言うとおりにした。
直家は謀略の準備は整ったと喜んで、浦上宗景に告げた。
「沼城から天神山城間にのろしを上げます。そうしたら、中山信正を討ち取ったと思ってください。のろしを上げたら、殿が島村貫阿弥のもとへ使いをやって、『中山信正が謀反を起こした。よって直家に命令して討たせている。島村貫阿弥も即座に沼城に駆けつけて、直家に協力するように』という命令を出してください。島村貫阿弥は年老いてはいますが、そう命令されれば深く考える暇もなく、一騎がけで沼城に来るでしょう。そこを討つのならば簡単です」
そして決行する日を決めた。
その日がやって来た。いつもの沼城近くの鷹狩り場に直家は出かけて、日暮れには沼城に入った。
狩猟で得た鳥を提供して酒宴になった。
夜もたいへん更(ふ)けた。中山信正もす
っかり酔って、直家は「今晩は私もここで眠らせてもらおう」と言ったので、中山の家臣たちは部屋を退出した。直家はすっかり眠ったようにみせかけ、不意に中山信正をただ一刀のもとに斬り殺し、勢いよく外に飛び出すと、大声を上げた。すると前もって城下に忍び込んで待ちかまえていた者たちが、我先にと城内に侵入してきたので、城内の者たちは「何事だ」と驚きあった。川の向こうに伏せていた兵たちも鬨の声をあげ、例の仮橋を渡って攻めてきた。
うろたえる中山の家臣たちを切り伏せ、切り伏せ、城を攻め取った。
こうしてのろしが上がると、浦上宗景は即座に島村貫阿弥のもとへ使いを馳せて命令を伝えた。
命令を聞くと、島村貫阿弥は「我に続け、者ども」と叫んで馬に鞍を置かせて飛び乗り、七、八人ばかりの従兵をともなって沼城にやってきた。
直家は城をすばやく乗っ取っていたので、本丸に居て、門を閉じた。島村貫阿弥はこのようなはかりごとがあるとは思いもしなかったので、本丸に入ろうとするところを、前もって打ち合わせていたように取り囲んで討ち取った。
島村の兵が一騎駆けに、まばらになってやってくるのを、道で待ち伏せして討ち取った。直家がそのまま兵を出して、島村貫阿弥の居城である鷹取山城に押し寄せれば、防ぐ兵もいなくて、城の者はちりぢじになって逃げていった。
策略によって中山、島村の二人を殺し、それ以降、直家は勢力を強め、沼城を居城とした。砥石城には弟の春家を置いて、最後には浦上を滅ぼして、備前をことごとく平定した。
*直家の祖父、宇喜多能家が殺害された年は、天文三年(一五三四年)。
*宇喜多直家が生まれたのは享禄二年(一五二九年)。史実では直家と、弟ふたりは異母兄弟。
*福岡の地名は、かつて筑前国域を治めていた黒田氏の発祥の地である備前福岡(岡山県瀬戸内市)に因むといわれている。【ウィキペディア】
*具足戒――比丘・比丘尼の守るべき戒。この戒を持すれば、徳はおのずから具足するという。比丘に二百五十戒、比丘尼に三百四十八戒あるという。【広辞苑】