〜戦国武将エピソード集〜

並びに、岡剛介が手柄を立てたこと

 また一説には最所元常が宇喜多家に従わなかったので、宇喜多直家は甥である宇喜多与太郎基家(もといえ)に、長船(おさふね)紀伊守(きいのかみ)と延原(のぶはら)土佐守(とさのかみ)を伴わせ、攻めさせた。

 最所元常は城を出て、山のふもとの段の原に陣を敷き、竹田川原で戦った。しかし地の利を生かした最所元常の軍に、宇喜多基家はまともに戦うことができず、岡山城に引き返した。

 最所元常がいる龍の口城は険しいところにあって、守りやすく攻めにくい城だったので、宇喜多直家は家臣たちと相談した。

 長船紀伊守が「修理(しゅり=修理職、ここでは最所元常を指す)はいくさのかけひきにはたけているが、色を好むという欠点がある。ああ、なんとか工夫して、城の中に入り、だまし討ちをしたいものだ。だけど才智があって、賢く健やかな者でないと無理だろう」と言ってしきりに岡清三郎(せいさぶろう)の方を見た。

 しかし宇喜多直家は何も言わないまま、話し合いは終わった。

 そのまま、しばらくして、宇喜多直家は岡清三郎を捕らえて監禁した。そして重臣たちに「岡清三郎に不義の振る舞いがあった。首を斬れ」と怒った。

 皆、「岡清三郎は幼少の頃から奉公をしはじめて今年で十六歳になるまで、一度も過ちはありませんでした」と宇喜多直家を諫めたが、聞き入られなかった。

 宇喜多直家が奥の間に入るとき、岡豊前(ぶぜん=現在の福岡県東部と大分県北部)を中に入れ、「岡清三郎をひそかに逃がしてやれ。私がこれからさせようとするはかりごとについては、清三郎によく言って聞かせてある」といった。岡豊前は直家の言うとおりに、岡清三郎を逃がした。

 その翌日、首を斬るために清三郎がいる牢を開けば、彼の姿はどこにもなかったので、皆、驚いたというわけである。

 岡豊前と血縁関係のある僧が、龍(たつ)の口(くち)の向いにある枚石(ひらと)原に草庵(=草ぶきの粗末な家)を構えて住んでいた。岡豊前は清三郎をひっそり連れ出して、そこに頼んでかくまってもらった。

 あるとき最所元常が、城下の川で魚を捕っていたところ、尺八の音色が聞こえてきた。人をやって様子をみてもらったところ、尺八を吹く清三郎の様子を告げてきた。そして剣術の師、加藤十蔵の小姓の早川左門(さもん)など、かれこれ六、七人が川の向こう岸に渡って清三郎の姿を見てみると、報告通りに容貌がすぐれていて美しかった。しかし清三郎は見物している人がいるのに気づいて、尺八をしまって草庵の中に入ろうとした。

 彼らは草庵の中へ入ろうとする清三郎を引き留めて「あなたは一体、何者ですか?」とたずねた。

「私は宇喜多家の家来、岡清三郎という者ですが、無実の罪を着せられ殺されていたところを、家老が憐れんで、ここに身を潜ませてくれたのです。洞簫(どうしょう=尺八によく似た楽器)は直家の猶子(ゆうし=甥)基家が堪能でして、彼から少し習っていたのです」

 最所元常は、岡清三郎の、その姿、話し方からただ者でないと思ったので、彼を連れて龍の口に帰った。

 周りの人々が、「清三郎は敵方の人間です。用心するべきです」と諫めたのだが、最所元常は「宇喜多直家など恐れる必要はない。たとえこの清三郎がスパイだとしても、私は彼を味方にして直家の方を陥れてやろう」と言う始末である。

 最所元常は岡山城にスパイを放って様子を探ってみたが、はたして清三郎の言ったとおりであった。それで最所元常はもう何も疑うことなく、清三郎を寵愛した。そして軍務をおこたるようになり、しばしば城上の北の楼で酔って眠るようになった。

 赤坂郡和田の城主、和田伊織(いおり)がこれを聞いて、龍の口に来て諫めが、聞き入れてもらえなかった。

 こうして夏の猛暑の頃、最所元常はいつものように北の楼上で酒盛りをして、ふだんから好んでいた尺八を清三郎と代わり代わりに吹いて、しまいには清三郎の膝枕で眠ってしまった。清三郎は、「今なら絶好のチャンスなので首をとるのも簡単だ」と思ったのだが、「何といっても最所元常と一緒に過ごした日々は短いものではなく、このように寵愛してくれた人を淡々と殺すのは、いかにも人情がないようで、どうしたらいいのだろうか」とためらった。それでも、「いやいや、せっかくご命令を頂いて、身を捨てる覚悟でこの城の中に欺いて入り込んだのだから、チャンスを得た今、個人的な情けなど省(かえり)みず、当初の目的を果たすべきだ」と考え直して、最所元常の脇差しを抜いて手元に寄せて、首を切り落とし、袴を脱いで首を包んだ。そしてつづら折りになっている山道を北のふもとへと下りていった。

 早川左門が北の楼へ来てみると、最所元常の死体は血で赤く染まっていた。早川左門はたいへん驚いて「清三郎が殿を斬り殺した」と叫んで、清三郎を追いかけてふもとに下りた。

 ちょうど清三郎が、川の前で、そこにあった小舟に乗ろうとしていた。

 早川左門は追いついた。清三郎が振り返って、斬り合いになったが、早川左門は眉間を斬られて倒れた。

 それから徐々に追っ手が駆けつけてきたけれど、清三郎はすでに小舟に乗り込み、棹をさして、向こう岸に上がっていた。

清三郎を追いかける龍の口城の兵たちは、上の瀬(かみのせ)地蔵岩のあたりにつないでいた小舟に乗り込んだが、一度にたくさんの人が乗ってしまったため、棹をいくら押しても、小舟はちっとも動かなかった。

 その間に、清三郎は岡山城まで、やすやすと逃げ帰ることができた。

 そのころ岡山城では、宇喜多直家が悔やんでいた。

「清三郎はまだ年が若く、最所元常を討ち取ることなど、最初から無謀だったのだ。生きて帰れるはずもない。ああ、なんという無慈悲な作戦をしてしまったことだ」

 だから岡豊前が清三郎を連れて、最所元常の首を取り出すと、宇喜多直家はたいへん驚き、喜び、そして清三郎の成功を不思議がった。そして宇喜多直家がその手柄を称(たた)えることは、並大抵ではなかった。

 これより岡清三郎は岡剛介と名乗った。

 龍の口では、最所元常の家臣たちが歯を食いしばって怒ったが、どうしようもなかった。

「和田の伊織を大将として逆襲し、岡山城に打って出よう」と言っても、その和田本人が「自分の城を捨てて、無謀な軍(いくさ)をすべきではない」と言うものだから、皆、あきれるばかりである。

 宇喜多直家は、最所元常を討ち取った勢いを利用して、龍の口に押し寄せた。城主を失った者たちは、指揮命令系統を失い、それぞれ自分の思い思いに行動したので、防戦のてだてがなく、多くは落ち失せていった。そのため最所元常の頼みの綱であった山口与市でさえ、どうすることもできなかった。とはいえ部下とともに逃げ落ちるのも面目が立たないと、山口与市は三の廓(くるわ)にて腹を切って死んでしまった。そして宇喜多直家は城に火を放って焼き払った。

 このため和田でも、兵士たちが力を失って落ちて散っていったので、金川(かながわ)城の松田一族とひとつになろうということで、和田の城もほんのわずかな時間で攻め落とされた。

 また上道郡、中島城落城と龍の口城落城は一日の出来事である。宇喜多直家が龍の口から引き返すとき、中島の城を取り囲んだが、城主中島大炊は多勢に無勢で、防ぐことはできなかった。榎(えのき)の大木に樹洞(=木の中につくられた洞穴状の空間)があって、中島大炊(おおい)はそこに隠れていたのだが、探し出されて、最後には討たれた。

 中島の子孫は今でも生きている。そのときの榎も今もあって、幹の周囲は三丈(=一丈は尺の十倍で約三・〇三メートル)ほどである。

目次

常山紀談、032-3-1

常山紀談、032-3-2

常山紀談、032-3-3

常山紀談、032-3-4