〜戦国武将エピソード集〜

遠藤喜三郎が三村家親を射殺したこと

 宇喜多直家は近隣の国を攻め取ろうとしていた。

 毛利元就は備中(=びっちゅう、岡山県西部)松山城の城主、三村紀伊守家親(いえちか)に命令して、美作(=みまさか、岡山県北部)の三星(みつぼし)城を攻めさせた。

 宇喜多直家は、三村家親と合戦になれば、隣国の別の敵がその隙(すき)に押し寄せてくると考えて、策略によって三村家親を討ち取りたいと思った。そこで遠藤喜三郎という新参の家来を呼んだ。

遠藤はもとは阿波(現在の徳島)の人だが、このとき備前国津高(つだか)郡加茂という所に住んでいたという。

「そなたは三村家親が備中成羽城を居城にしていた時、そなたも成羽にいたのだから三村家親の顔をよく知っているだろう。そこでお願いがあるのだが、美作の三村家親の陣に忍び込んで三村家親を暗殺してほしい」

 宇喜多直家にそう言われた遠藤は、「三村家親はそう簡単に暗殺できる人物ではありません。とはいえ、このようなことを殿から頼まれるのは、たいへん名誉なことです。三村家親のもとに忍び込んでみましょう」と作州(=美作、岡山県北部)に赴いた。

 弟の修理(しゅり、弟の官途、つまり官吏としての地位が修理である)も、「兄は生きて帰ることはないだろう。私も兄と死をともにしよう」と言うので連れて行った。

 永禄六年(一五六三年)に三村家親は穂村(ほむら)の興禅寺という山寺で陣を敷いていた。

 遠藤兄弟は夜の闇にまぎれ、興禅寺の背後にある竹林の中から忍び込んで、寺の縁の下にかくれた。

 夜が更けて、こっそりと障子に近づいて部屋の中をのぞくと、三村家親が柱によりかかっていた。

遠藤喜三郎は、「ここは天が私に与えてくれた絶好の射撃ポイントだ」と鉄砲を構え、いざ撃とうと火ぶたを切ったのだが、なんと火縄の火が消えてしまった。兄の喜三郎があっけにとられたままなので、弟の修理がさっと外に出て、夜回りの人にまぎれ、かがり火のそばを通る際に、羽織の裾に火を付け、「かがり火が私の服に燃え移ったぞ。危ないではないか」と声高に、番をしていた人たちに注意した。そして弟の修理はもとの場所に戻ると、兄の火縄に火を移した。すると兄はすぐに三村家親の胸元を撃ちぬいた。

 ちなみにその弾の跡(あと)は今でも興禅寺の柱に残っているという。

 このとき三村家親のそばに三村孫兵衛親成(ちかなり)という老功の重臣がいた。

「騒いではいけない。皆さん、静かにしてください」と言って、屏風を三村家親の前に立てた。そして耳を澄まして外の様子をうかがってみたが、何も聞こえなかった。

「さては夜討ちではなかったようだ」と言って、偵察を出してみたが、三星から軍勢が出てきた気配もない。

 三村家親の死を隠したまま、重臣、三村親成は「今夜、備中に引き返す」と命令した。そして備中松山に帰ってから、はじめて三村家親が死んだことをみんなに教えた。

「三村親成の采配がなければ大混乱に陥って、宇喜多直家に敗北してしまっていただろう」と人々は言い合った。

 遠藤兄弟はといえば、もとの竹林に隠れていた。三村家親を撃ち殺したと思うのだが、あまりに静かなのでおかしい、と思いながらひっそり竹林から抜け出たが、鉄砲を置き忘れてしまった。後で「うろたえていたから鉄砲を忘れたのだ」と馬鹿にされるのも口惜しいので、もういちどひっそりと竹林に戻った。そして鉄砲を持って兄弟ともに備前に帰った。

 兄は後に一万石を与えられて宇垣の城に居を構えた。弟の修理も中村正崎の城を預かった。

 *史実では三村家親暗殺は永禄九年、一五六六年できごと。

 *遠藤(兄)は遠藤秀清で通称は又次郎。遠藤(弟)は遠藤俊通で通称は喜三郎。

 兄の名前が喜三郎となっているのはまちがいだが、弟の官途が修理であるのは正しい。

目次

常山紀談、033-1-1

常山紀談、033-1-2