永禄五年(=一五六三年)三月、北条氏康父子と武田信玄父子(の連合軍)が数万の兵をもって、武州松山城を囲んだ。
それを聞いた上杉謙信は、八千の兵をもって後ろ巻き(=味方を攻め囲む敵軍を、さらにその背後から囲むこと)させた。
同十五日、上杉謙信が厩橋(うまやばし=現在の群馬県前橋市)に着陣すると、「武州松山城が落ちた」と耳にした。
「ならばこれより*山の根の城へ押し寄せ、敵を打ち破ろう。そうすれば敵が(慌てて)後詰めする(=援軍を送ってくる)だろうから、(そうやっておびき出した)北条・武田父子の四将が率いる大軍へ、直接対決に持ち込もう。それがもっとも理想的な形だ」
と、上杉謙信は、そう言うよりも早く、利根川を渡り、川にかけられていた船橋(=船を横に並べてつなぎ、その上に板を渡して橋としたもの。浮き橋)を切り流し、山の根の城に押し寄せ、たちまちのうちに攻め落とした。
小田助三郎をはじめとして、敵を皆、なで切り(=かたはしから一人も残さずに切り倒すこと)にした。
そして上杉謙信は使者を北条・武田の四将の陣に送った。
「武州松山城に向かわれたと聞きまして、迎撃に出ましたが、武州松山城を素早く攻め取られ、いくさすることができませんでした。まったく武家としての礼儀にそむいてしまいました。ただいま、山の根の城を攻めております。さあ、後ろ巻きをしてごらんなさい」
そう言って送ったのである。
北条氏康は、この挑発に乗って出撃しようとした。
武田信玄は言った。
「上杉謙信に今、勝ったとしても、『四人がかりで勝った』のだと人にそしられるようでは口惜しいことだ」
そう言って、武田信玄は強いて北条氏康を押しとどめ、そのために後ろ巻きは中止となった。
しかしそれは武田信玄の本心ではなく、 (武田軍は士気が高く)勇気倍々の状態でも、日頃、上杉謙信には苦戦しているというのに、武州松山城が落ちて怒っている謙信相手にその矛先へ向かうのはためらわれ、まさに虎をおそれるのと同じ状況になっていたためだということだ。
また一説に、このとき武田信玄は兵を進め、太鼓を鳴らし、軍威は厳然とした様子であった。
(それにつられて)越後の軍兵も甲冑を着け、一刻も早く出撃しようとしていた。
その時、上杉謙信は、「いやいや、信玄がここへ攻めてくることはありえない。退却するため(に、いかにも攻めてくるようなふりをしているだけ)だ。馬の鞍をおろし、甲冑を脱いで、休息をとろう」と言ったのだが、果たしてその通りに、武田信玄は撤退していったという。