〜戦国武将エピソード集〜

家康、三河一向一揆と厚木坂で戦う

 蜂屋貞次は、その後真っ先に一向一揆から離れて家康に降参した。それから人々が家康に願い出てので、結局、一向一揆へ味方した者たちは罪を許された。

 その後、二連木の合戦で、本多忠勝(=通称、平八郎)や牧宗次郎は(敵に向かって一番に)槍を合わせたのだが、蜂屋貞次は少し出遅れた。「蜂屋、もうとっくに敵と槍を合わせているのにどうしたのだ」と言う者があった。

 蜂屋貞次はこれを聞いて、「他人が(一番)槍をしたというのなら、自分は(一番太刀をめざし)刀で斬り合うまでよ」と言い捨てて、刀を抜いて敵の中に飛び込んで、二人をなぎ伏せた。そして河井正徳という者が鉄砲を構えた所に走りかかった。

 この河井正徳は広く知れわたった(鉄砲の)手練れだったので、蜂屋貞次に命中させた。蜂屋貞次は深手を負ったが起き上がって、その場所から退いた。しかし最後には死んだということだ。

 ところで、この河井正徳のことだが、ある時、差し迫った状況でしんがりをしていたのだが、敵が後方から「その手負いを討ち取れ」と大声を立てた。

 これは河井正徳が生まれつき足が不自由で歩行の釣合がとれなかったため、負傷したのだと思ってこのように言ったのである。

 その時、河井正徳は立ち止まって、「弓矢の神に誓って、私は手負いではない。生得(=うまれつき)、足が不自由なだけだ」と言った。

 そのため(=河井正徳が、危険なしんがりの途中で勇敢にも敵に手負いでないと主張したから)今川家は褒めて、彼を正徳と呼ぶようになったという(生得の障害者の生得=しょうとく=正徳、という関連性)。

 ところで、蜂屋貞次が痛手を負ったのを彼の老いた母が聞いて、「どういった一部始終だったのか」とたずねた。その時の様子はこれこれだったと答えると、「うれしいことだ。士が戦場に出て矢に当たるのは当たり前のことだ。もし手負いの様が無様でないのだったら、死んだとしても冥途で面目が立つだろう」と言ったということだ。

 戦国時代では、婦人の身だからといっても、弓矢取る家に生まれた者は、その志すところが、江戸時代である今の時代とは大いに異なっており、それはよく考えないといけない事だ。

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常山紀談、039-2