〜戦国武将エピソード集〜

中島元行の母が備中経山城を守ること

 尼子伊予(現在の愛媛県)守晴久は、尼子刑部と大賀駿河(するが=現在の静岡県中央部)守に一万の兵を与えて、備中(現在の岡山県西半部)は経山城を攻めさせた。

 備中経山城は、中島加賀(現在の石川県南部)守の息子である中島大炊助(おおいのすけ)元行が守る城であった。

 手勢はわずか二百ばかりだったが、中島元行は少しも恐れなかった。

 彼は頓宮次郎左衛門と鷲見九郎二郎に、百姓ども二百人を率いさせて、寺屋敷という土地に隠れさせた。

 また阿部左衛門二郎と鷲見五兵衛には、鬼ヶ城という所に潜ませた。

 敵は中島元行たちの力を軽く見て、備中経山城に押し寄せてきた。

 その時、中島元行は、木戸(防備のため柵に設けた門。城の門)を開いて打って出て、合図の法螺貝を吹いた。すると鬼ヶ城に潜んでいた伏兵は、敵の背後に回った。そして頓宮たちは百姓に紙の旗を立てさせ、竹槍を持たせ、鬨の声をあげさせた。

 尼子軍の兵士たちは、前後に敵がいると思い、助け合おうとしたのだが、道が細く、谷も深ければ、なだれ落ちて、秩序を失った。

 だがしかし、尼子軍は攻具(=敵を攻める道具)を整えて、備中経山城を取り囲んだ。

 そこで中島元行の母が、鎧の上に羽織を着て、刀を横たえ、婦人たち二十人ほどを連れだって歩いた。中島元行が本丸にいるときには、母親は出丸を巡回し、元行が出丸を巡回すれば、母親は本丸を守って、兵士たちが怠けたり油断しないように警戒した。

 ある夜、風雨が激しかったので、中島元行は百人ばかりの兵で夜討ちに出た。兵の半分を道に伏せ隠した。

 こうしておいてから、敵陣に乱入し、鬨の声をあげて、火をかけて、そして静かに退却した。

 敵が追撃してくれば、思いも寄らぬ道のかたわらから、伏兵がどっと湧いてくる。

 敵兵三百人あまりが討ち取られた。

 中島元行に行く手を防がれて、尼子軍は退却し、二度と攻めてくることはなかったという。

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常山紀談、046