徳川家康が今川氏真(うじざね)と反目しあうようになった。
かねてから駿河(現在の静岡県中央部)の今川の所へ、岡崎三郎(=家康の嫡男である信康)を人質として預けていた。その信康を今川が殺害するようだ、という情報が、徳川家の方にも伝わってきた。
石川伯耆(ほうき=現在の鳥取県西部)守数正(かずまさ)がこのことを聞くと、「まだ幼い信康様が亡くなろうというのに介錯(=切腹する人に付き添って首を斬り落とすこと)して差し上げる人もいないというのは無念である。ええい、この数正が信康様のもとに参って、冥途のお供をさせてもらおう」と、ただ一人で駿府(すんぷ=駿河国の国府所在地)の今川館に赴いた。
このような状況の時に、今川家の侍大将である鵜殿長照の子供二人が徳川家に生け捕られた。そのことを今川氏真が嘆いていると聞いて、石川数正は、信康の外祖父(=母方の祖父)であり今川家臣である関口刑部大輔と相談して、今川氏真に「信康様を返してくだされば、鵜殿長照の子、氏長と氏次を返しましょう」と求めた。
今川氏真は喜んですぐに信康を返した。
石川数正は信康を肩に乗せて岡崎に帰ると、家臣たちは言うに及ばず、国中の高貴な人も賤しき(=身分、地位が低い)人も皆、迎えに集まってきて、感動しない者はひとりもいなかった。
三方ヶ原の戦いでは、石川数正は信長への加勢(=援軍)として遠州(遠江国の別称。静岡県西部)に向かったが、武田が押し寄せてきていると聞いて、とって返した。
美濃(岐阜県南部)の守護、土岐家に有りという浅岡なんとかという人は、弓矢取りとしてそれ相応の古兵(ふるつわもの=多くの実戦経験を積んだ老巧な武士)と聞いていたので、石川数正はその浅岡のもとへ行った。
「今度、本国に帰ったら、私は必ず討ち死にするでしょう。この数正は弓矢を取り、打ち物(=刀・やり・なぎなたなど、打ち鍛えて作った武器)を使って、形の如く(かたのごとく=決まった形式のとおりに。形式だけ。かたちばかり)いくさをすることは度々なのだが、いくさに臨む日に、弓懸(ゆがけ=弓を射る時、弦で指を傷つけないために用いる革の手袋)の緒を結ぶ様式に故実(こじつ=しきたり)があることを聞いたことがありながら、いまだ身につけてはいません。それでは死んだ後に『この男は弓懸の緒を結ぶ骨法(こっぽう=儀や故実などの作法)も知らないのか』と敵に笑われてしまいます。これでは殺された上に恥辱まで受けることになってしまいますので、弓懸の緒の結び方を教えていただきたい」と伝授してもらい、夜を日に継(つ)いで(=夜昼の区別なく)駆け戻り、三方ヶ原の戦いでも特にすぐれた武勇を奮った。
その後は太閤秀吉に騙されて、岡崎の城を出て大阪に行き、豊臣家に仕えた。
秀吉は石川数正に和泉(いずみ、大阪府南部)を与え、武者奉行に命じた。
石川数正は徳川家累代の君恩にそむいて、一生涯の忠節や武功を台無しにしてしまった。
※『血気既に衰うる時は、これを戒むること、得るにあり(老年になると、血気は既に衰えている。欲深さを戒めること)』という聖人(=孔子)の言葉を知らなかったことが、不快であり情けない。
孔子曰、
「君子有三戒。
少之時、血気未定。戒之在色。
及其壮也、血気方剛。戒之在闘。
及其老也、血気既衰。戒之在得」
孔子曰く、
「君子に三戒(さんかい)あり。
少(わか)き時は血気未だ定まらず、これを戒むること色に在り。
その壮(そう)なるに及びては、血気方(まさ)に剛(ごう)なり、これを戒むること闘(とう)に在り。
その老いたるに及びては血気既に衰う、これを戒むること得(う)に在り」と
孔子曰く、
「君子には三つの戒めがある。
若いときは、まだ血気が安定していない。色欲を戒めること。
壮年になると、まさに血気盛んである。闘争を戒めること。
老年になると、血気は既に衰えている。欲深さを戒めること」と。