永禄十二年(一五六九年)、今川氏真がいる遠州(遠江国の別称、現在の静岡県西部)掛川城が攻め落ちた。
その時、城下に位置する掛川天王山での合戦で、徳川方である大久保治右衛門忠佐(ただすけ)は今川方である敵を突き伏せ、甥である新十郎忠隣(=大久保忠隣)に「その首を取ってお前の手柄にせよ」と大声でいった。
大久保忠隣は十七歳だったが「人がくれた首など、手柄にも何にもならない」と言って、敵の中に駆け込んで首を取った。
三方ヶ原の戦いで徳川家は敗北し、諸軍がばらばらに散らばってしまった。そのため潰走する徳川家康に付き従う人が少なかったのだが、大久保忠隣はそばを離れず、馬を失った後は徒歩でお供していた。小栗忠蔵が敵の馬をとってきて、家康が「それに乗れ」と言ったので、大久保忠隣はその馬に乗ってお供した。
後に相模(現在の神奈川県)守となったのは、この人である。