遠州(遠江国の別称、現在の静岡県西部)でのことだったか、いずれの時のいくさだったかは分からないが、徳川家康の配下に高木主水清秀と村越与三右衛門という名高い兵士二人がいた。
味方から離れ、細縄手(なわて=田の間の道、あぜ道。まっすぐな長い道)をしずしずと(=きわめて静かに)引き退いている所へ、敵十騎ばかりが追ってきた。
高木清秀は槍を持ち直し「一歩も引かぬぞ」と叫んだ。
村越与三右衛門は弓に矢をつがえて、「私が槍脇(戦場で一番槍や二番槍の脇を刀・弓・鉄砲で固める兵士)を射よう。しっかりと槍を奮ってくれ」と言えば、敵がひるむので、二人はまた退いた。
敵を威嚇しては、その隙を突いて退く。こういうことが数回にも及んだ。
こうして左右が沼で、大勢で囲まれることのない一騎討ちに適した場所になったので、「ここは良い場所だ」と言うが早いか、高木清秀が踏みとどまり、先駆けててきた敵を突き伏せれば、村越は大声を挙げて「その首をとれ」と言いながら敵一人を射倒した。敵がひるんだところを高木が勇み進んでまた一人突き伏せれば、村越もまた一人を射倒した。
それからは敵が追って来なかったので、二人は安心して退却することができた。
高木清秀が水野下野(しもつけ=現在の栃木県)守信元(のぶもと)に属していたとき、三州(三河国の別称、現在の愛知県東部)苅屋の戦いで、度々手柄を立てて、後に徳川家に仕えた。
水野に属していたとき、石が瀬という所で三河兵と槍を合わせること一日に七度にも及ぶことがあった。石川伯耆(ほうき=鳥取県西部)守が十七歳で内記と名乗っていたが、高木清秀と互いに名乗り合って槍を合わせたが、勝負がつかず、ともに引き退いた。
長久手の戦いでは、高木清秀と内藤四郎左衛門が武者奉行だった。
高木清秀は年老いて、関ヶ原の戦いのときには隠居していたが、野州(栃木県)小山へ参ると、度々の功名を取りざたされ、徳川秀忠から綿の羽織をもらったというという。
戦国時代といえども、一日に数度槍を合わせることは希であった。
高天神城の小笠原与八郎の家来である林平六郎が遠州(静岡県西部)豆大寺(浜松、頭陀寺城)で六度槍を合わせた。
武田信玄が伊豆韮山に放火して、山縣昌景を押さえとして置いていたとき、韮山城の城兵が討って出てきて、それを引き受ける場所にいた三河の浪人、河村伝兵衛が白四方に船の文字の指物(広辞苑=当世具足の背の受筒にさし、戦場での目標とした小旗または飾りの作り物。旗指物。背旗)をして、敵を追い散らした。このときに槍を合わせること、日に六度だったという。