元亀元年(一五七〇年)の春、大友左衛門督義鎮(よししげ)が肥前(=佐賀県と長崎県を合わせた地域)の龍造寺山城(やましろ、現在の京都府南部)隆信(たかのぶ)を討った。
龍造寺隆信が和睦を求めたので、大友義鎮は派遣する兵の数を増やさなかった。
肥前と筑後(ちくご=現在の福岡県南部)の国境に千栗という大きな川があった。
吉岡下総(しもうさ=千葉県の北部と茨城県の南西部)入道宗観という者が、「龍造寺は大敵だ。勝敗もきまらずして、理由もなく和睦を求めてきたのには、きっと謀(はかりごと)があるはずだ。千栗川を渡ることは簡単ではないだろう」といった。
そこで大友義鎮も「もっともだ」と、豊後(ぶんご=大分県)の留守を預けていた佐伯紀伊(きい=和歌山県)惟教(これのり)とその子、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)惟真(これざね)、そして田原近江(おうみ=滋賀県)入道紹恩を呼び寄せて、その六千の兵を第二陣として、千栗川を渡る時に敵が攻撃をしかけてこないように警護をさせてから、大友本隊は川を渡った。
龍造寺隆信は、大友義鎮を騙して敵軍が引き退く所を不意打ちにしようと企んでいたのだが、追撃された場合の準備を大友軍はしていたと聞いて、追わなかったという。