天正三年(西暦一五七五年)、織田信長は美濃(岐阜県南部)岩村城を攻めて秋山伯耆(鳥取県西部)守信友を生け捕りにし、生きたまま逆さ磔(の極刑)に処した。
ところで信長の叔母は、遠山景任の妻で、その遠山景任が前の岩村城城主であった。
秋山信友は、遠山の七家と呼ばれた人々と和平を結んでだまし、元亀二年(一五七一年)、信長からの加勢である三十五騎の兵を殺害し、岩村城を奪い取って、遠山景任の未亡人(=信長の叔母)を自分の妻にした。
遠山景任はこれより前に病死していた。
秋山信友は、遠山景任の跡継ぎで(遠山景任の養子になっていた)信長の息子である御坊丸を甲州(山梨県、つまり人質とするために信玄の所)へ送り、岩村城を自分の居城としたので、信長の怒りは根深く、このように逆さ磔にしたのである。
秋山信友は「くやしくも謀られたことだ(信長方が提案し、秋山信友らの助命などが認められた和議に応じて岩村城を開城したのに、開城した途端にその条件が破棄された)。私は信長とは親戚縁者の関係で、このようにされたことは無念である」と歯ぎしりして「信長の末を見よ(=信長よ、お前はろくな死に方はしないぞ)」と罵りながら、七、八日ばかり経って死んだということだ。
信長が信州(長野県)法華寺で、兵糧を使って(=食事をして)いた時、色とりどりの(=大胆で派手な色使いの)小袖を来た女房がひとりやって来て、懐から錦(=様々な色糸を用いて織り出された織物の総称)の袋に入れた茶入(ちゃいれ)を取り出し、「これを信長に見せて下さい。見て、それと分かることでしょう」と言った。
信長は走り出てその茶入を石に当てて打ち砕き、刀を抜いてその女房を斬り殺した。
この女房こそが、秋山信友の妻で信長の叔母である。