〜戦国武将エピソード集〜

松平忠次、諏訪原城を守る

 天正三年(西暦一五七五年)八月、徳川家康は諏訪原城を攻めた。

 この城は甲州(山梨県)の武将、馬場美濃守氏勝が、城を制御するための基本原則に従って築いた、名高い城であった。

 しかし城兵の力が弱って、八月二十四日の夜に城を捨てて小山城に逃げ落ちた。

 徳川家康は、「この地は高天神城に往来する際の要路で、敵が保有する駿州(=駿河、静岡県中央部)田中城、持船城とは大井川を一筋に隔てられているだけだ。武田勝頼は必ずや隙をうかがって攻撃を仕掛けてくるだろう。誰がここにいて城を守り敵を防いでくれるのだろうか」と言った。

 すると松平左近忠次が進み出て、「不肖の身ではありますが、この城をお守りしましょう」と言った。

 家康は満足して褒め、松平の姓を与え、家康の名(当時は「松平元康」であった)から「康」という字も与えた。

 松平左近忠次が松平周防(=すおう、山口県東部)守康親(やすちか)と名乗ったのはこのときからである。

「武田勝頼の暴悪は、殷(いん)の紂王(ちゅうおう)に似ている。ここから攻め入って討ち滅ぼすべきだ」ということで、諏訪原城は牧野(紂王が討ち取られた場所が牧野(ぼくや)だった)城という名に改められた。

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常山紀談、096