〜戦国武将エピソード集〜

山内治大夫と進士清三郎が武功を譲り合ったこと

 諏訪原城を甲州(=山梨県)方に攻められて、合戦があった。

 その時松平康重(=松平康親の子)の家臣である山内治大夫、進士(しんし)清三郎、山崎惣左衛門の三人がしんがりを務めた。

 山内治大夫は精兵(せいびょう=弓を射る勢いが強いこと)で手利き(てきき=腕前の優れていること)だったので敵を射払って、引き退くときには、弓矢が尽きた。

 敵の山縣源四郎がなおも追いかけてきたとき、進士清三郎が一筋の矢を山内治大夫に投げ与えたので、山内が踏みとどまって射ったところ、矢は志村金右衛門の胸板を射通し、後ろにあった松の木に突き刺さった。

 それによって両軍はたがいに退いた。

 山縣源四郎はこの矢を松平康重に送り返して、「無双(=並ぶ者がいない)の強弓精兵だ」と褒めた。

 松平康重は矢に「進士」という姓が彫りつけられているのを見て彼を褒めたところ、「これは山内が射った矢です」と言った。そこで山内治大夫を呼び出して、そうなのかと聞いたところ、「進士清三郎が射ったのでございます」と山内は功を譲った。

 松平康重は山内と進士の両人に感状を与えた。

 世の人はふたりを現在の※孟子反だと言い合った。

 

※孟子反

 論語の雍也篇に「子曰、孟之反不伐、奔而殿、将入門、策其馬曰、非敢後也、馬不進也」という有名な一文がある。

「孔子は言った。魯の孟子反は功を誇るようなことはしなかった。彼は斉に敗北したいくさで殿を務めた。そして無事に役目を終えて魯の城門に入る時、馬を鞭打ちながら言った。私は敢えて殿を果たそうとしたわけではない。ただ馬が進まなかっただけだ」

 孔子は孟子反の謙譲の美徳を称えている。

   
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常山紀談、0097