天正五年(=一五七七年)、畠山修理大夫義隆が毒殺され、家臣たちは七尾城を根拠地にして信長に属し、能登(=現在の能登半島)は大いに乱れた。
だから畠山義隆の伯父である上杉弥五郎義春は越後(=新潟県)で暮らしていたのだが、これを聞いて上杉謙信にこのことを告げた。
上杉謙信はすぐに軍勢を出して、義春が先陣をして、七尾城を攻め落とした。
このとき、長九郎左衛門重連(=長綱連)は、七尾城で畠山の重臣、温井(=ぬくい)と三宅に殺された。
長綱連の弟である恩光寺が使僧(=使者たる僧)となって、織田信長にこのことを告げると、柴田勝家、丹羽長秀、前田利家、羽柴秀吉、滝川一益、氏家卜全ら、兵四万あまりにて出陣し、八月五日に加州(=加賀、現在の石川県南部)手取川を渡り永島に陣を取った。
上杉謙信は能登一州、ことごとく旗下につけ、八月一日兵を返して加州にて、長一族の首七つを倉部と柏野の間にある浜に竿を結び渡し、掛け並べて、札を書いて立てた。
上杉謙信は、松任城城主、蕪木(かぶらぎ)右衛門大夫と和平を結び、信長の着陣を聞いて、松任城にて軍評定(=合戦の前に行う作戦会議)をして、「一戦しよう」と手配り(=人を各方面に配置して事を行う準備をする)した。
「七尾城はすでに落ちて、謙信がここまで向かって来ているのだから、ここで合戦するのは無益だ」と言って、「引き退くべきだ」と信長の陣中のあちらこちらで浮き足だった。そこで、恩光寺(=人名、長綱連の弟)が「人に首を見せてもらうに、(長氏一族七人の)名前があってているだけで面貌(=顔かたち)は違っていた。織田軍が押し寄せてくると聞いて、上杉謙信が謀(はかりごと)をもって、長一族の首を偽り、竿に掛けてさらしたのであろう。能州(=能登国=能登半島)を捨てて松任城にいるのは後詰め(=応援のため後方に控えている軍勢)を防ごうとするためだろう」と言うのを聞いて、騒ぎも静まった。
その夜、戌の刻(=午後八時ごろ)になって、恩光寺は柴田と羽柴の陣へ行き、「さっきは味方全体が敗北しそうな様子をみて、嘘を言ってだましました。あの七つの首は、私の父や兄弟のものです」と告げたので、「ここで合戦をしてはいけない」と言って信長は兵を引き返した。恩光寺は「ぜひ、ひといくさを」と請い願ったが、聞き入られなかった。
恩光寺は、のちに信長の命によって還俗(げんぞく=一度、出家した者が再び俗人にかえること)した。長九郎左衛門連龍(つらたつ)というのは、この人(=恩光寺)である。
長連龍は父、兄の弔い合戦を志し、信長の命令を受けて越前(=福井県東部)に行って、柴田勝家に力を貸してくれるに頼んだ。柴田勝家は越前の大橋に札を立て、「長連龍が能登国へ発向(=討伐、出向くこと)する。立身を志す者は、私の家臣であっても集合せよ」と書いたので、それで集まった武士八十人あまりが、天正七年(=一五七九年)三月二日に能州穴水城に入ると、昔からの知り合いたちがともに馳せ集まって、百人に及んだ。上杉謙信は有坂備中(=岡山県西半部)を七尾城に配置させていたが、長曽検見与十郎を大将として押し寄せて戦う。
長連龍が敗北して危なかったところを、谷大学が討ち死にして、長連龍はやっとのことで退いた。
紀州(=和歌山県)の武士、鈴木因幡(=鳥取県東部)は、最初は長連龍と親しかった。北越(=新潟県)に居て、すぐに能州に来て長連龍と有坂を和睦させ、「従者たちは陸から、長連龍は船で有坂の所へ来るように」という使いに鈴木が来たのだが、長連龍を殺害する気配があった。長連龍に従っていた石黒大膳、井久留了意、合田民部、小島小介たちは「どうするべきか」と言った。石黒は、「今、七尾城に行けば、必ず殺害されるだろう。船中にて鈴木を殺して退きましょう」とすすめる。長連龍はこれを聞いて「そなたの志には喜んでいる。しかしながら、陸より回る家人は皆殺しにされるだろう。私ひとりが生き残る道理はない」と言って、七尾に行き、法道寺に入って、ついに有坂と対面した。殺害されそうにはなったが、有坂は差し障りなく長連龍を帰した。
松川兵部が「今日、長連龍を討ちもらして心残りです。押し寄せて討ちましょう」と言ったが、有坂は聞き入れなかった。
長連龍は石動山を通って、越中(=富山県)に行った。石黒が「敵が寄せて来るのに残る者がいなければ口惜しいことです。姓名を頂いて、敵の攻撃を防ぎ止めて討ち死にしましょう」と言ったが、長連龍は、「そなたを見捨て殺しておいて、私一人が生き延びて何の面目があるというのか」と言った。石黒が、「情けないことを言いますね。本意を遂げたなら、私の子孫を取り立ててください」と言うところへ、七尾城の商人が来て、「敵が押し寄せてくる」と言った。長連龍は石動山を通り、石黒は武装して待ち構えていたが敵はこなかったので、後から馬に乗って長連龍に追いついて、ともに越中に行き、神保安芸(=広島県西部)守氏春のもとに滞在した。
後に、長連龍は前田家に仕えて、浅井畷で武功があったのはこの人である。
長連龍は後にまた、恕庵と名乗った。