〜戦国武将エピソード集〜

織田信忠が慧林寺を焼く

 武田勝頼が滅んだ後、武田家を尊崇する慧林寺に先の将軍、足利義昭の使者である、大和淡路守、三井寺の上福院、佐々木承禎の三人をかくまっているという噂があった。

 そのため「はやく差し出せ」と織田信忠が命令すること、三度に及んだ。しかし慧林寺は差し出さなかった。織田信忠は怒って「累世(=代々)の檀家である勝頼でさえ少しの間も境内にとどめさせず、その遺骨ですら引き取り収めないくせして、つまらぬ者をかくまっている」と、津田次郎信治、長谷川与次郎らを送って寺を取り巻いて探させた。しかし三人はとっくに逃げ去っていた。

 僧徒(=僧侶)は皆、山門の楼に登ってこもっていたのを、その下に焼草(やきくさ=物を焼くのに用いる枯れ草。また、火勢を助けるためのもの)を積んで火をかけた。

 快川をはじめとして、座して合掌して焼け死んだ。その他、わめき叫んで焼け死んだのは宝泉寺の雪峯、東光寺の藍田、長禅寺の高山ら、そして児童(=子供)に至るまで、八十四人である。

また、禅僧の語り伝えるところには、快川が濃州(=美濃、岐阜県南部)にいたとき、信長が招こうとしたが、彼は拒否して、今川家に行って、今川家を補佐した。それで信長に憎まれ、甲州に行って慧林寺の住持(=住職)になった。武田信玄の死を厳重に隠していたので、信長はますます怒って色々と探り聞いていたが、快川の方より漏らすことがなかったので、信長は怒りに耐えかねていた。そこへ武田が滅んだので、とうとう焼き殺したということだ。またそのとき、楼下に槍先をそろえて、取り逃がすことのないようにした。快川が弟子の南華に「法の耐えることは口惜しい。とても逃げることはできないが、楼より飛び降りて死になさい」と行ったので、南華は飛び降りた。下で群がっていた武士たちで槍衾(やりぶすま)を作っていた者はその槍を伏せていたので、南華は助かることができた。そして南華は後に豊後(=大分県)月渓寺にいたという。また続いて飛び降りた者が十六人いたが、その名は伝わっていないということだ。

 ※「旦越」という語句が分からなかったが、文中から檀家と訳した。

 ・檀家=檀越(だんおつ)

 ・旦那(だんな)=檀那(だんな)=檀越=檀家

以上から旦越=檀家として間違いはないと思う。

目次

常山紀談、119