天正十年(=一五八二年)、徳川家康は江尻に軍勢を出し、成瀬吉右衛門正一を使者にして、田中城を守っている依田(よりた)信蕃(のぶしげ)に降参をすすめた。
「武田の旧臣たちはことごとく離反して、武田家の滅亡は近い。はやく田中城を出て下さい」と命じたのだが、依田信蕃は従わなかった。そして、「武田の重臣の書簡を得て、その虚実をはっきりさせたい」というようなことを言った。そのあと、「先年の遠州(=静岡県西部)二股城の縁もありますから、大久保忠世に田中城を渡しましょう」と言ったので、家康も「もっともなことだ」といって、(武田家の重臣で、既に離反している)穴山梅雪に書簡を送らせた。
依田信蕃はそれによって(書簡を受け取って事実が確認できた)大久保忠世に田中城を渡したので、家康は「降参したのなら、信州(=長野県)の本領(=もとからの領地)を充行(=あておこない、所領や禄物を割り当てること)ってやろう」といった内容のことを言ったのだが、依田信蕃はそれを聞いて、「武田勝頼の存亡がくわしくわからない間は、その仰せを了承するわけにはいきません」と言って、信州佐久郡葦田に赴いた。
武田勝頼は既に滅んで、織田信長は「このたび、武田勝頼に二心(=主人に対する謀反の心)なかった者といえども、武名ある者は諸将が召し抱えてはならない」と命令して、さらに隠れている者を捜し出して、死刑にしようとしていた。
家康はこのことを嘆き、依田信蕃を市川の陣に呼んで、密旨(=内々の命令)を与え、主従六人で遠州飼東郡二股の奥小川という所に隠した。それ以外にも家康は、人徳によって人をたくさん助けた。