永禄三年(一五六〇年)、上杉謙信は八千の軍勢を相州(=相模、現在の神奈川県)小田原に出した。
関東の諸将すべての者が上杉謙信になびき従ったので、その数は十五万にも膨れあがった。
本陣を高麗寺山の麓に構え、先陣の太田三楽(=太田資正)は小磯に陣を敷いた。
北条の兵は、戦わずして城に引いたので蓮池まで攻め入り、そこから鎌倉に赴き、鶴岡八幡宮にお参りをした。
上杉憲政(のりまさ)の重臣たちも皆、群参(群れなして参詣すること)した。
成田長安(ながやす=成田長泰)が警護の者と言い争いをした。罰を与えるべきだったが寛大な処置がとられた。成田長安は上杉謙信の怒りを恐れて病気になり引きこもった。
甲陽軍鑑がこのことを謙信が成田を殴ったと記しているのは誤りである。
同年六月に上杉謙信は京に上った。
六月二十八日、京都に到着し、七月七日に将軍足利義輝に謁見し、吉光の太刀と黄金三十枚を献上した。
将軍足利義輝からは関東管領の任を与えられた。また諱(いみな)をもらい(将軍義輝の一字を賜り、当時謙信は、輝虎(てるとら)と名乗った)、そして兄弟の義に準ずる(=同等の扱いをする、広辞苑)との命を受け、、越後(現在の新潟県)に帰っていった。