〜戦国武将エピソード集〜

大沢左衛門の手勢たちが家康を狙ったこと

 永禄十二年(一五六九年)四月、徳川家康が浜松に帰った時のことである。

今川氏真を武田信玄が攻め落とし、今川氏真は土岐(岐阜県南東部、土岐川に沿う市)の山家に引きこもっていた。そこで家康が「あなたの父、今川義元とのよしみゆえに、遠江(現在の静岡県西部)は徳川家によって治められるべきで、武田信玄にとられるよりかはましなはずである。だから徳川家は、小田原北条氏と共謀して両家にて武田信玄といくさをしよう」と今川氏真に言ったので、氏真は感謝に堪えないという意を伝えて、掛川城を徳川家に渡した。北条氏政と武田信玄は*薩捶山にて対陣し、足軽同士の小競り合いが起きた。徳川家康の先陣は駿河(現在の静岡県中央部)に攻め入り、信玄方の武将、山縣昌景を追い落とした。武田信玄は前後から挟み撃ちにされては勝利はありえないと考え、甲州(現在の山梨県)へと兵を帰した。よって徳川家康も帰陣した。

 徳川家康が堀川城を通過した時、大沢左衛門尉

前年の永禄十一年に徳川家康が遠江の過半を治めた時に、降参してきた者である

の手勢たちが、去年より落ちぶれた者たちと共に謀って、尾藤主膳、村山修理の二人を大将にして、堀川で密かに一揆の準備をし、徳川家康が通過するのを待ち伏せして討ち取ろうと計画していた。

 それを知らない徳川家康は七騎で通り過ぎた。一揆の者たちはあまりに騎馬の数が少ないので、かえってそれが徳川家康であるとは分からなかった。後から石川伯耆(=鳥取県中西部)守数正が通るのをみて、「さては家康に先に通られてしまったのか。たやすく討つことができたものを」と悔やんだという。

 創業の人君(=君主)には天の助けがあるように思える。

 その後、徳川家康は堀川の一揆を攻めたが、堀川城は満ち潮の時は船の出入りが自由にできるが、ちょうどその時は引き潮で、一方だけにしか出入口が設けられていない城なので、逃げ落ちることができずに皆討ち取られた。

*薩捶(捶は代用漢字。本来は「てへん」でなく「つちへん」)――現在の静岡市清水区興津井上町にある峠。薩捶山が駿河湾に押し迫り、東海道を抑えるための軍事上の要衝。この戦いでは、武田軍と北条軍が興津川を挟んで向かい合い、薩捶山一帯の広い範囲に北条軍の陣が敷かれた。

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常山紀談、027