武田勝頼が天目山で滅亡したことも、甲陽軍鑑には切り死によって没したと記載されている。これは甲州(=山梨県)の士民(=武士と庶民)が言い伝えていることとは異なっている。
鶴瀬(=山梨県甲州市大和町鶴瀬)の人々も武田勝頼に背いたので、天目山を目指して落ちて行った。一揆が所々で起きていたので、百姓の家に、付き従ってきた婦人たちを入れ、すぐそばの人家に茅があったのを運ばせ、出入り口をふさいで、火を放った。
小高いところに上がって、武田家代々に伝わっていた楯無(たてなし)という鎧を武田信勝に着させた(勝頼の子信勝は、甲斐武田氏伝来の家宝「楯無の鎧」を着用をする儀式によって、武田氏最後の当主となる)。土屋総蔵(=土屋昌恒、総蔵は幼名)が肩入れの役(=文字通り、鎧を肩に入れるのを手伝う役)をした。
そうして武田勝頼は薙刀を携えて、寄せてくる一揆に向かおうとした。しかし土屋昌恒が「お屋形(やかた)様は新羅三郎(=源義光)から、武家として、二十八代目をお継ぎになりました。今わの際となりましても、一揆ごときに御首を渡すことは、口惜しいことでございます」と諫めた。勝頼は「もっともなことである」と鎧を脱いで、土屋昌恒に介錯をさせて最後を迎えたということだ。
勝頼に従っていた人々は皆、お互いに刀を刺し違えてお供をした。
そして土屋昌恒と僧の麟岳(りんがく)が残った。みんなの見事な最後を見届けた後、土屋昌恒が自害したので、麟岳は刀を口にくわえ、体を貫かせて死んだということだ。
以上のことにより、甲陽軍鑑の天目山のことはもとより、弾正(=春日虎綱=高坂昌信)の筆記ではない。後の人が誤り伝えて書いたものにちがいない。